第547話 救世主

「こっちも慈善家じゃねえが、たまには慈善活動もいいもんだ」


 ビウムとパフィが去り、僕がご主人の事務所で待ち始めて随分経ってから、ようやくその男は現れた。

 浅黒い肌、緩く波打った髪を持つ男だ。背は高く、しなやかな手足を高級そうな服で包んでいる。

 上機嫌そうに薄ら笑いを浮かべ、ゴールディに一瞥をくれる事もなく、自宅の様な気安さで応接椅子に腰を下ろした。

 一拍おいて重厚な靴を履いた足が机に乗せられる。

 部屋の主であるご主人は自らの机でそれを咎めることもできず視線を床に落としていた。


「こんな紙切れがついてくるなら、なおさらな」


 エランジェスはニヤニヤと笑い一枚の紙を懐から取り出す。

 慌ててそれを受け取ったゴールディは紙切れをご主人の机に置いて見せた。

 ご主人の横に立つ僕も、その紙に目を走らせる。

 そこには『都市内における娼館及び同業一切の運営について、独占的営業の権利を保証する』とロバートの名前で記してあった。

 

「ラタトル会長。アンタは確か、こっちの庭場には色気を出したことなかったよな」


「……はい、そのとおりです。エランジェスさん」


 すっかり空気に飲み込まれたご主人が、冷や汗を浮かべながら答えた。その横顔に、この都市有数の大商人である威厳は感じられない。

 

「アンタのその、肝が小さいところは好きだぜ。よく分かっている」


 クツクツと笑うエランジェスの横で、配下の筈のゴールディが同じくらい緊張していた。

 なるほど。この危険な男と長く付き合うということは、とことんまで恐れ続けることが重要なのだろう。

 僕はなんとなく納得して、頷いた。

 僕の背後にはギーが立っているし、僕自身も随分と強くなった。

 どこまで凶暴であろうとも、所詮ただの人間に過ぎないエランジェスよりずっと強い存在を沢山見てきた。だから、怖くない筈だ。

 だけど、思考とは裏腹に口の奥で苦い思いがこみ上げてくる。

 かつて、この男に道ばたで殴り倒された。この男にすれば、ほんの片手間の行為だったが、それで僕には痛みの記憶と生々しい恐怖、それに屈辱が刻み込まれた。

 この男が去ったあとも、行為が行われた通りに近づくことさえためらわれている。

 そもそも関わりたくない嫌悪感が脂汗となってじっとりと肌を湿らせるのだ。

 この男にはっきりと殺意を抱いたゼタが、それでも我が身を捨てなければ対峙できないと思った気持ちが理解できる。

 かつてどこか知らないところで死んでくれと願ったノッキリスへの嫌悪感をずっと膨らませればこんな気持ちになるのだろう。


「ンッフッフッフ。まあこんな紙切れがなかろうと、娼館はもともと俺のもので、誰に渡したつもりも無え。だが、この都市には今、娼館がいくつもある。ってことはアレだ。俺が血と汗を流して築いた商売を盗んだ泥棒がいるってことだ。なぁ、ラタトルさんよ」


 ご主人は目を泳がせ、数秒沈黙した後に小さく息を吸った。


「それは……」


「それもこれも、どうでもいいんだけどな」


 ご主人を弄ぶ様に、意地悪くエランジェスが言葉を被せる。

 

「俺も商人だ。無法者じゃない。が、盗まれた物は取り返さないと商売はやっていけねぇだろ。まして、それを奪われる時、ハンクは命を無くした。片目をつぶって見逃すには、大きな犠牲だよな。ゴールディ」


 話しを振られたゴールディは愛想笑いを浮かべて「はい、エランジェスさん」と答えた。

 エランジェスは満足げに頷くと立ち上がり、ご主人の眼前で机に登った。

 あらかじめご主人から口を挟まないでくれと言われているギーが何かを言いたそうに僕を見たが、僕も沈黙を通した。

 土足で机を踏みにじられ、なおご主人は視線を上げない。

 

「ラタトルさん、アンタも知っていると思うがこの都市に流れ込んでいる食料やら物資のほとんどはウチが持ち込んだものだ。それも領主府にタダ同然の安い値で、大量に卸している。取引自体は大損だが、俺を育ててくれた街の為だ。惜しくはない」


 この男はこうしておいて、相手が視線を上げるとそれに因縁をつけるのだろう。

 僕も直視できず、エランジェスがどんな表情をしているのか解らなかった。

 

「さっき、領主に収まってるロバートに会ってきたが、今後の納品は領主府へ直接じゃなく、アンタとやるように言われたよ。大きな取引だ。俺がいた頃は地味で無難な小麦商だったものが南方貿易を独占し、配下商会を抱え、更には領主代理まで推挙して、今や押しも押されぬ商店会連合の代表とは、大きく伸びたものだな。まあ、俺程じゃないがね」


 机の上で膝を曲げ、しゃがんだエランジェスが床に向けられたご主人の顔を覗き込む。

 

「で、アンタのとこの下部組織に収まったガルダ商会が問題だ。俺の調査が正しければ、ハンクを殺したのも商店会連合や役人どもを俺の反目に回らせたのも、ガルダという男の仕業だった筈だ。もっとも、更に調査してソイツが死んだことも知っている。が、その頃のガルダは自分で商店会の会員株も持たない小物だった。もっといや、アンタの番頭だったと思うがね……さて、ここで重要な確認事項だ。俺は、俺を舐めたヤツを許さない。アンタ、裏で絵図書いて俺を陥れようとしたんじゃないのか?」


 ご主人は唇を震わせ、哀れな程に怯えていた。


「それは誤解です」


 僕は鼓動を抑えながら口を挟んだ。

 かつて無数に対峙してきた、凶悪な魔物たちを思い浮かべて自らを鼓舞する。

 

「小僧、俺とこのオッサンの会話に口を挟むオマエは誰だ?」


 薄笑いのエランジェスが机の上から僕を見ていた。

 ご主人を庇おうとしたコトを既に後悔し始めていた。

 喉が渇いて妙にくっつく。


「ガルダ商会の現会長です。もっとも、僕はラタトル会長の奴隷でガルダさんと親交があったわけではありませんが……とにかく、その時にはご主人とガルダさんの会話を同席して聞いていました。ご主人はガルダさんを叱り、大声でたしなめていました。あなたに反抗した様な行動は完全にガルダさんの独断でした」


 今、既にいないガルダに恨みは被って貰おう。

 エランジェスがどんなに凶悪でも死者に加害は出来ないし、なによりほとんど事実そのままなのである。

 エランジェスは目を細めて上から下まで僕に視線を這わす。


「ふん、ガルダが死んだあとは、自分の稚児さんに跡を継がせたわけだ」


 エランジェスは呟いて机から飛び降りるのだった。

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