第546話 オセアノ
パン屋の二階にあるラタトル商会の会長室を訪ねると、ご主人は顔を青くしていた。
しかし、横に立っているのはロバートではなくビウムとパフィだった。
ご主人と対照的にビウムは上機嫌な表情を浮かべている。パフィは、いつも通りの無愛想な顔なのだけど。
「アナンシさんこちらをどうぞ」
ビウムが差し出したのは銀行の入金証だった。彼女の口座から僕の口座へ大金が動いている。
その額は、僕が彼女へ貸した額に多少色をつけた金額だ。
「とりあえず、あなたにお借りした分の資金を返済しておきます。大変に助かりました」
そう言ってビウムはぺこりと頭を下げた。隣のパフィも合わせて頭を下げる。
彼女の口座からは月ごとの利息と返済金が自動で僕の口座に移動する様になっていたのに、借金額を上回る金額を払い込むということは、彼女も儲けを出したのだろう。
「うん、確かに……でも、大丈夫?」
僕は彼女の金払いの良さに心配になってしまった。
そもそも彼女は資金を投資によって募り、その金をなくした為、あらためて僕に借銭を申し込んだのだ。
金が出来たから借金を返すというのは、以前の僕の様にその日暮らしの奴隷だったらよかったのだけれど、彼女が志向するのは商人である。
利益を投資家に分配し、その上で次の種銭を確保しなければならない。
身綺麗になったとて、手持ちの金がなくなれば商人としてやっていけはしないだろう。
だけど、ビウムは薄く笑って答えた。
「資金については、特に食料や物資を運搬する隊商についての費用を領主府から低金利貸し付けや助成を行っておりますので、そちらから借り換える準備が出来ているんです。おじ様が保証人になってくれれば、この都市でこれより強力な信頼はありませんもの」
なるほど。
領主が一商人に直接命じるより、広く物流の活性化を促した方がいいと領主府の役人たちが判断したのだ。食料の買い上げや管理を行わなくて済むし、分配も市場が勝手にやってくれる。
ビウムとしても高い利息で金を借りたり、危うい線から投資を募ったりするよりもずっと安全だ。
それもこれも当面の食糧事情が最低限、落ち着いたから出来たことなのだろう。
いずれにせよ、貸した金が増えて帰ってきたのだから、僕としても文句はない。
「よかったね。それはそれとして……ご主人の御用はこの件ですか?」
わざわざ僕を呼び出したのが、金が手に入ったビウムに頼まれて、というのも十分に考えられる。が、それならばなぜご主人は不自然な汗などかいているのだ。
「あ……ああ、この二人が来る少し前だ。オマエに会いたいと客が訪ねてきた」
喉が渇いているのか、あえぐようにご主人は声を絞り出した。
「お客さんって、誰ですか?」
ご主人がこんなに狼狽える相手と言えば、ロバートだが彼なら直接僕を呼び出す。
「失礼しますよ」
扉が開けられて入ってきたのは、日に焼けて太った老人だった。丸鼻が特徴的で、頭は禿げ上がっている。
いや、果たして老人なのか。老人としても何歳なのか。
顔面に刻まれたシワで年齢が読みづらい。
男はまっすぐに僕を見つめると、両足を開き両膝に手を当てて頭を下げた。
「ガルダ商会の会長さんとお見受けします。当方、西の方から。西と言いましてもそんじょそこらの西ではございません。遙か彼方は大陸の果て、反逆者どもの海と呼ばれる海の浜辺より国々を跨いで参りました。人呼んで『梯子』のゴールディと発します。彼の地では『大洋浜小屋連合』というケチな組織に身を置く、しがない小物ですが、以後万端御昵懇にお頼みもうします」
「……はあ」
よく分からない挨拶に、あっけにとられる。
凄く遠いところから来たということしか解らない。
それきり、室内に沈黙が広がった。
広がって充満した沈黙はパフィによって破られる。
「あの、アナンシ会長の挨拶を待っているのでは……」
「え、ああ。どうも。ガルダ商会の会長をしているアといいます。あなた方よりはずっと手前の西からやって来ました」
しかし、ゴールディと名乗る男は顔を上げない。
「あだ名!」
パフィが横手から小声で促したので「あ、一応『魔物使い』とか呼ばれています」と続けたものの、ゴールディは顔を上げない。
困ってパフィに目をやると「挨拶ですよ!」と教えてくれた。
「あまりやれることはありませんが、こちらこそよろしくお願いします」
僕がそう言うと、ゴールディはようやく顔を上げた。
体勢的に膨れた腹が辛かったのか、顔を赤くしてゼェハァと肩で息をしている。
「丁寧なご挨拶、ありがとうございます。私ら、ヨソさんの庭場で商売をさせていただきますときは土地土地の実力者さんにご挨拶申し上げるのが常でして……」
「はあ、それはわざわざ。ん、実力者というのはご主人の事では……?」
領主代理の後援者として今や押しも押されぬ大商人といえばご主人であって、その傘下商会に過ぎないガルダ商会など、特に今の代になってからパッとしない。
そのパッとしない僕がなぜ遠方から来た商人と挨拶交換など行わなければならないのか。
「ああ、いや。そちらの会長さんとは、うちの上役を交えてすでにご挨拶をしているんですよ。不躾ながら、あなたが来るのを外で待たせて貰っていたんです」
汗を拭いながらゴールディが言う。
「なんせ、逃げられたらコトだ。俺はまだ挽肉にはなりたくないんでね」
嫌な予感が湧き上がる。
「ご主人、こちらの方の言う上役さんって……?」
「エランジェスさんだ」
僕は会長室の窓から外を見た。
パッと見ただけで十名ほどがこちらを見上げている。いずれも筋の良さそうな顔ではない。
「別にとって食おうってわけじゃないんですよ。うちのエランジェスはそちらのラタトル会長から紹介状を貰って御領主様の元へ挨拶に行っておりますが、本人の強い希望でガルダ商会の会長さんにお会いしたいと言っておる次第でして……ま、気楽にお待ちくださいよ」
ゴールディは歪んだ笑みを浮かべて椅子に腰を下ろした。
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