第544話 首投げⅧ

 教会とルガム邸の間には、晴れた日は皆で食事をとれる大きなテーブルと椅子があった……のだけれど、そんなものは燃料不足がひどくなった頃に叩き割って燃やしてしまった。

 その代わり、その場所には無数の竈が据えられて炊煙を上げていた。

 大勢の女性が忙しそうに大麦と雑穀の粥を煮ているが、少し大きな子供たちも薪を割ったり水を運んだりしている。

 動ける男手は軍隊に入って故郷へ戻ったか、各地へ散っていったので他に方法もないのだろう。

 その中にルガムを見つける事が出来ず、僕は家に入る。外とは違って、家の中はしんとしていた。

 がらんとしている事を除けば、懐かしい我が家の匂いに舌の奥が痺れた。

 帰ってきた。

 確かに、帰りたくて仕方がなかった場所へ生き延びて戻ったのに、それでも心がうずく。

 心のどこか、ではなく真ん中ではっきりと迷宮への渇望が喚いていた。

 空腹や睡眠欲よりも迷宮への欲求が強い。

 北方へ向かう以前の僕は一体、どうやってこの思いから目を背けていたのか。

 自分で自らの血を吸う吸血鬼のごとく、魔力を循環させて誤魔化していた筈だけど、それは徐々に依存症が進む中で自然に覚えた技術だった。

 同じ事をするだけが、ひどく惨めに思える。

 僕は抱えたサミを一層強く抱いた。

 すでに乳児特有の甘い匂いは消え、汗の臭いが鼻につく。力強い生命の匂いだ。

 母親に似ればきっと、逞しい女の子になることだろう。

 この子の為にも迷宮に沈むのは避けよう。そう言葉に出して誓ってしまいたかったが、声は出なかった。

 喉が渇いて張り付く様で、咳払いをして台所の椅子に座る。


「ねえ、お父さん。サンサネラとかハリネに会いに行こうよ。お父さんがいない間、一緒に迷宮へ行ったりしていたんだ」


 誇らしげに武勇を誇るアルは、どれ程強くなったものか。

 楽しみでもある。


「そうだね。彼らにも帰った事を伝えたいね。アル、夕飯には彼らも呼んできてよ」


 僕が頼むと、アルは元気よく頷いて扉を出て行った。

 薄暗い室内に取り残されたサミは、やがてアクビをして眠りにつく。

 自宅で我が子を抱いているというのにひどく場違いな気がした。

 寝室へ行き、ベッドにサミを寝かせる。

 その横へ、僕も服を脱いで潜り込んだ。

 久しぶりの自分の布団で、降り積もった疲労が体のそこかしこでズキズキと主張するが、サミの暖かさがそれを中和してくれる。

 目を閉じると、なにもかもそのまま置き去りにしてしまったものたちが今更、気になってきた。

 どうしようもない勝敗。グェンやその他の用心棒たち。戦争に巻き込んでしまった雇いの人夫たち。モモックやグロリア。ゼムリの死体。そうして、ゼタも引っ張り出して収納することも出来ずに置いてきてしまった。

 果たしてゼタを封じた鎧が回収できるものか。出来たとして既に魔力が切れたと思われる彼女が僕と同じように再び動き出すものか。しかし、もはや今更である。

 一歩間違えれば死んでいた僕が心配しようとしまいと、そこにいる人々で折り合いをつけ、生きる死ぬを決めていることだろう。

 グルグルと回る思考が辿り着くのは、結局迷宮のことであった。

 人間から魔物へとすっかり変質してしまったらしい僕の体が、こんな場所で寝ていていいものか。

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。

 

 ※


 ふと気づけば夜中だった。

 窓も閉め切っているのでどれくらいの時間が経ったか解らない。が、部屋の中は真っ暗だ。

 満たされた暗闇に、どこか安堵する自分がいる。

 サミはいつの間にか横にいない。

 だけど、漏らしたのだろう。サミが寝ていた部分がぐっしょりと濡れていた。

 もしかすると泣いていたかも知れない娘に気づかず、それどころか何者かが娘を連れて行ったのにさえ気づかなかった。

 僕自身も、寝汗がひどく喉が渇いていた。

 水を飲もう。起き上がって水場へ行こうとして、ふと気づく。

 ルガムが部屋の隅で壁に背を預け床に胡座をかき、サミを抱いたままこちらを眺めていた。

 暗闇の中でじっとこちらを見つめる視線に気圧されて、鼓動が早くなる。


「あの……会いたかったよ」


 嘘ではない思いを告げる。事実として彼女を探して帰った事を伝えたかったのだ。


「アタシもね、会いたかった。心配してたし、途中で戦争に巻き込まれたとも聞いたし、生きて帰ってきてくれて本当によかった」


 言葉とは裏腹に彼女の目は冷たく、愛する者に向けるそれではなかった。

 こういうときに怒っているか聞くと相手は一層に怒るのだ。それくらいは知っている。だけど彼女は僕の事をよく理解していて、深いため息を吐くと立ち上がった。


「ゴメンね、イライラしているんだ。ここのところ朝から晩までずっと考えることだらけで、アタシ、本当にこういうのに向いてないよ。ガルダとかそんな小器用で知恵が回るヤツがいればよかったんだけど、ウチの話をヨソのヤツに決めさせるわけにはいかないから」


 そう言うと、僕を立たせて布団の乾いた部分にサミを寝かせる。

 そうして振り向いたルガムに僕は抱きしめられた。

 力強い腕が、それでも不安そうに震えていた。

 

「帰ってきてくれてよかった。本当に」


 呟くように言う、その胸の匂いがたまらなく胸を締め付けた。

 魔力の欠乏に手足は痺れているけど、魔力では補えないものが心を満たす。


「留守番をさせてごめんね。もう、君を置いて遠くへは行かないよ」


 僕はそう誓ったのだけれど、同時に魔力を求める僕の魔物の部分が背筋を冷たくする。

 嘘だ。どこか遠くない日に、僕は沈んでしまう確信がある。

 だけど、ルガムの悲しそうな目つきはそんな事なんてとうに看破していそうだった。

 それでもはっきりとは言わず、僕をつなぎ止めようとするように回された腕に力が込められていく。

 いろんな意味で息苦しかったのだけれど、それでも僕は彼女の腕をありがたく思っていた。


 ※


 目が覚める。空気の匂いから、まもなく日が昇りそうだ。

 僕とルガムは互いの服を掛け合って床で寝ていた。

 昨晩の夕飯を食べ損ねたので、空腹感はあるのだけど、それよりもずっと強い迷宮へ足を向けてしまいそうな欲求を感じ、後戻り出来る分水嶺を遙か遠くに過ぎてしまったと知る。

 今日ではなくてもいつか……いや、今日のうちにだって迷宮に沈んでしまいたい欲求が鎌首をもたげ僕を弄んでいた。

 それでも隣で寝息を立てているルガムや、ベッドで寝ているサミ、そうして他の家族たちを支え守るためにはこの欲求に抗い続けなければいけない。

 僕は下唇を噛み、嘘を嘘にしないことを密かに誓うのだった。

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