第541話 別れ際
迷宮を出る。
気を張っていたおかげか、自覚があるような症状は出なかった。
つぅ、と魔力が体中を巡っているのが分かるが、もはや僕はこの魔力がなければ迷宮の外では生きていけないのだということを実感する。
ディドは教え子を解散させると、振り返って疲れた笑みを浮かべる。
「なあ御頭。クロアートはアンタの役には立てたか?」
「ものすごく。彼の存在がなければ僕はあの場で死んでいたと思います」
僕は即答した。
これは嘘でも間違いでもない。
彼がいなければ自分で蒔いた種に絞め殺されていただろう。
「そう……か。それならいいんだ。落ち着いたら、アイツの死に様を教えてくれよ」
手斧を腰に提げると、ディドは鎧を外し始めた。
分厚く、重たい防具をひょいと持ち上げて肩に担ぐ。すっかり慣れ、身に染み込んだ動きだ。
「あの……クロアートさんは最期に、ディドさんにはご迷惑を掛けたと詫びていました。そうして、お体に気をつけてと言い残しました」
これは今、伝えておいた方がいいと思った。
ディドはため息を吐いて背中を曲げる。
「俺はさ、アイツと長いつき合いで面倒を見てきたけど、手間も金も掛かったよ。アイツのために頭を下げたこともある。薬も結局やめなかったし、カロンロッサから見捨てろって言われたりもした。だから、すごく重荷に感じている部分はあったんだ。今後はその分、気持ちも楽になると思う。だけど、今だけは素直に悲しんでもいいだろ」
下唇を噛むとディドは一人、切り株に腰を降ろした。
それ以上言葉をかけるのははばかられ、僕は二、三の言葉を交わすとその場を辞したのだった。
※
ディドが教えてくれた、個室のある宿で来訪を告げると部屋に通された。
アスロはベッドで布団にくるまって熟睡しており、部屋の床や棚には買ってきた総菜や果物のゴミが大量に散らかされていた。
「アスロ」
僕が声を掛けるとアスロの目はスッと開き、上体が起こされた。
「ああ、会長さん。生き返ったね。よかった」
彼は枕の下からナイフを取り出すと、裾をめくって足首に結び始める。
「あのまま死んだらどうしようかと思ってたよ」
言うほどの悲壮感もなく、頭を掻いた。
「ここの支払いも、ディドって人に借りた金を返す宛もないしさ」
大きなアクビをしてアスロは近くのグラスに注いである水を飲み干す。
「ねえ、アスロ。僕が倒れた後、どうなったのか教えてくれる?」
アスロは少し考え込んだが、首をひねった。
「蟹を倒すのにかなり苦労したよ。とにかく堅くて。それで、グロリアさんがアンタを担いでここへ行こうとしてたから、俺が代わって……それから俺は何日か飲まず食わずで睡眠もろくにとらず、山を登って降りて、馬を盗んでここまで来たんだ。本当に疲れた」
ぼやくように言う彼の顔に、言うほど疲労の陰は見て取れない。
「それはありがとう。でも、君はあの街に帰らなくてよかったの?」
メッシャール軍の本体を壊滅させた後、防衛隊に戻って戦う道もあったはずだ。
なのに彼は今、ここへ来ている。
「帰っても大したこと出来ないしなぁ。俺はなんというか少数での浸透とか破壊工作は専門でも大部隊とかの指揮はまったく分からないから、残っている人でどうにかならなきゃ、俺が居てもかわらないよ」
自分の能力を卑下するような男ではないので素直な自己評価なのだろう。
そうして、言外にユゴールたちヘの信頼もくみ取れた。
「とはいえ、ゆっくりはしていられないから俺もそろそろ帰るよ。帰り道はアンタを担がなくていいから軽いもんだ。馬と飯を買う金を用意してくれ」
上着を纏い立ち上がった彼は、気負いもなく言い放つ。
なるほど。人間を一人抱えてあの山脈を越えるのだ。それがなければ鼻歌交じりだろう。
そうして、これこそが彼の専門分野なのだ。
少数で、単独で、過酷な環境を歩き、戦い、生き延びる。
「アスロ、君も迷宮で冒険者にならない?」
彼の資質は言葉にすればことごとく迷宮冒険者に必要なものであった。
が、アスロは鼻で笑って答える。
「絶対に嫌だね」
端的な言葉を吐いたあと、アスロは小さな雑嚢を背負って部屋を出ていった。
※
旅立ち前に吟味した食事を口に運びながら、アスロは思い出した様に口を開いた。
「そうそう。命を助けた縁だから言っておくけど、アンタがここの冒険者あがりを売りたいなら俺の仕える家に持ってきてくれよ。アイツらは使えるから、高く買うよ。この辺だと、人間以外に売れる資源もないだろうからさ。俺がここにくることはもう無いと思うけど、覚えといて」
彼はおそらく僕の配下の用心棒たちを値踏みしたのだろう。
「さて、そんなわけで俺はもう行くよ。たぶん、俺たちは今後メッシャール側に着くから、用があればそちらに連絡をくれよ」
食い物を腹に納めたアスロは立ち上がるとそう言葉を残して立ち上がった。
ご主人のところの使用人が馬を用意してくれており、馬屋へと案内していく。その背中はこちらを振り返りもせず雑踏に消えていくのだった。
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