第540話 搬送先

 さく、さく、さく、さく……


 霜柱が踏み割られる様な音が延々と響いていた。

 外からではない。体の内から。

 日に照らされた雪が音を立てて消えていく様に歪な僕の体が壊れていく。

 それだけが理解できる。

 たくさんの命を奪い、それを元手にせっせと作り替えてきた体が崩れ掛けているのだ。

 なにもかもが無しになって、はじめから存在しなかった様に均される。

 あるいはただ、それだけなのかもしれない。

 痛みも苦しみもない。暗いのか明るいのかもわからない。

 世界と自分を分ける殻が崩れ、混ざり合ってしまうような妙な不安感がどこにか、漂っていた。

 ひょっとして、ルガムが感じた死の感覚もこれに近いのだろうか。


 ルガム……


 漠然とした思考に突如として色が混ざる。

 愛する妻の後ろ姿が浮かび、僕はどうしても顔が見たいと思った。

 しかし、世界に溶けてしまった僕には手足が無い。どうすればそちらへ進むのかわからなかった。

 藻掻くことさえできない。

 彼女へ言葉を残すとすればなんだろう。

 娘のサミをよろしく?

 眼前にサミも現れた。

 これも後ろ姿だ。

 小さな背中を抱き上げ、彼女の匂いを嗅ぎたかった。

 だけどそれをなす腕も、鼻もない。

 と、アルが現れサミの横に立った。

 アルを守るように一号がいて、反対側にステアもいる。

 ギーとメリア、シグ、パラゴ、サンサネラ……

 他にも家族や仲間がどんどんと並んでいく。

 でも誰一人として顔を見せてくれない。

 せめて、最期くらい皆の顔を見ておきたかった。

 彼らの後ろ姿が徐々に遠退き、ぼやけていく中で一人だけがこちらを向いていた。

 一号ではない。

 よく似ているけれど別人だと、なぜかはっきりと分かった。

 テリオフレフが困ったように微笑んで、首を振っている。

 一体、なにが駄目なのかわからないまま彼女を抱きしめた。

 先ほどまでなかった腕が、胸が、そこにある。当たり前の様にテリオフレフは暖かく、僕の中はそれで満たされた。

 同時に、何故かとても痛々しい想いがどこかにあり、冷たく僕を睨んでいた。

 暖かい。冷たい。暖かい。冷たい。


 ふ、と目を開けて気づく。

 暗い空間。特有の臭い。そうして、漂う魔力。

 間違えようもない。

 迷宮だ。

 いつの間にか抱きしめていたコルネリが僕の覚醒に気づいて暴れ始めた。


「お、気がついたか?」


 ロープを牽いた巨漢が振り向く。

 教授騎士のディドだった。

 周囲を固める連中も見たことがある。彼の弟子たちだ。

 ディドのロープは戸板につながっており、僕はそれに乗って運ばれている様だった。


「あれ、僕は北方領にいたはずじゃ……」

 

 どこからか夢を見ていたのだろうか。

 だとすればどこから。

 時間感覚も曖昧で、どの程度寝ていたのかも判別が着かなかった。


「なんだったか……そうそう。アスロとかいうヤツがアンタを連れて来たんだ。アンタ、偽名を使ったんだろ。それでアンタの家よりも先に、アスロが覚えていたクロアートの名前で俺のところに着いたんだ」


 ディドが首をひねりながら答える。

 確かに、仮にも潜み住んでいるモモックの名前を知る者は少ないし、グロリアも長い不在から戻って間がない。迷宮都市ではクロアートの方が知名度も高いのだろう。

 脳裏にクロアートの去り際が浮かぶ。

 

「ええと、グロリアっていう僧侶と同行してたんだろ。その女の見立てで迷宮に連れて行けば息を吹き返すかもしれないってことらしくてさ。まあ目を覚ましたんだから当たったんだろうな」


 穏やかに喋るディドの言うとおり、僕の体調は回復しつつあった。

 風景と魔力の濃さで現在地が地下十階だということも分かる。

 いつの間にかきつく抱きしめすぎていたコルネリを離した。

 コルネリは暴れるのをやめて僕の胸にかじり付いてきた。


「あの、他の人たちは……?」


 魔力が尽きた僕はたくさんの巨大蟹を残して気絶した筈だ。

 アスロは無事として、モモックやグロリアはどうしているのだろうか。

 もっといえば、臨時の防衛隊やメッシャール軍はどうなったのか。

 しかし、ディドは首をひねった。


「その辺は帰ってからアスロとやらに聞いてくれ。すごい気迫で頼まれたから俺も押っ取り刀でここへ来たんだ。それほど詳しくは聞いていない。ただ、クロアートは死んだらしいな」


 クロアートの名でたどり着いたのだから、アスロもそれは当然に伝えるだろう。

 ディドは深いため息を吐き、その目は複雑な感情を浮かべていた。

 

「まあ、いいやな。体調はどうだね御頭さん」


 言われて指先から頭まで点検してみると、倒れていたのが嘘のように調子がいい。

 というよりも、自分でも無意識に周辺の魔力を取り込んで体力に変換していた。

 果たして、いつの間にこんなことが出来るようになったのだろうか。

 

「いいようなら自分で歩きなよ。それに乗せて引っ張るのは構わんが、階段の上り下りが面倒なんだ」


 そう言われて、僕は慌てて戸板を降りる。

 起きあがってすぐは目眩がしたものの、それもすぐに治っていく。

 鼻から胸一杯に呼吸すると、全身の隅々まで力が満ちていくのがわかる。

 居場所というものが定められるのならば、魚が水に居る様に、僕が居るべきはこの迷宮だと体が訴えている様だ。


 直後の戦闘から僕も参加し、懐かしさと心地よさを感じながら地上へ帰還したのだった。

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