第535話 空の色は

 ゼムリが死に、グロリアは気を失って寝ている。

 一呼吸の間に前衛が崩壊させられたのだ。


『ゼタ!』


 そろそろ底が見えてきた魔力で鎧のゼタを呼び出す。

 せめてもの前衛補強だ。

 

「よい、しっかりせんや!」


 モモックが呆然と立ち尽くすクロアートを蹴りつけた。

 

「ええ、大丈夫ですよ。ディド先生。それよりも先生こそお体に気を付けてください」


 はは、と笑いながらクロアートは返す。

 どうやら獣人はすべてディドに見えているらしい。

 焦点の合っていない目つきのクロアートにグロリアの治癒を頼むのは難しそうだった。

 ではどうするか。

 巨大なカニ爪が魔獣を向こうから叩きつぶした。

 こちらに向かって移動させていた一番近い個体がようやく到達したのだ。

 移動そのものは遅いが、手の動きは速い。ハサミでちぎり取った魔獣の破片を蟹は自らの口に運んでいった。

 巨大な体にしては控えめな口が、魔獣を貪る。

 喰らい合いが魔物の常であり、蟹はすぐに人間の腕一本分ほどの体積を食べた。

 もちろん、魔獣だって黙って食われたりしない。

 ぐっと伸縮すると、ドカンと派手な音を立てて体当たりし、巨大蟹を吹き飛ばした。

 丘をゴロゴロと転げ落ちていく蟹は腹から背中まで深い亀裂が入っている。

 しかし、一手浮いたのは助かる。


『傷よ、癒えよ!』


 僕は魔力を練り、回復魔法でグロリアを治癒した。

 意識が戻ったグロリアはすぐに倒れてこと切れたゼムリを見て息を呑んだ。

 彼女が連れてきた、彼女の同門だ。衝撃も大きいのだろう。

 僕だって、一緒に過ごしたのは短かったが、彼のことは好きだった。

 だからといってゆっくり感傷にふける暇は、全くない。

 アスロも蟹を吹き飛ばした魔獣に遅滞なくとびかかり、鋭い爪で深々と傷を刻み、巨大な顎で一部を齧り取っていた。

 アスロは魔獣の反応と思考が遅いのを既に見てとっているのだ。

 魔獣が体を絡めとろうとするずっと前に、虎は美しい身のこなしで背後に飛び去っていた。

 消費が低いということは出す力が小さいということでもある。

 単純な移動速度や破壊力は大きいが、複雑な動きや細かい動きにはいまいち対応できていない。

 おかげでこうやって戦い続けていられるのだ。

 

「グロリアさん、立ってください!」


 僕が怒鳴るのと同時に、ゼタが強力な火炎魔法を放った。

 猛烈な熱が魔獣の表面を炙り、亀裂を刻み込む。

 それも炎が消えると、見る間に消えていったが、わずかな足止めにはなった。

 ようやくたどり着いた二匹目の蟹が、地面ごと魔獣を突き刺す。

 動きを封じられた魔獣は蟹の腕を伝って身を伸ばすと、腕の付け根からハサミをもぎ取ってしまった。

 その間にグロリアは立ち上がると、ふらりとゼムリのそばへ寄り、彼の頭を撫でる。

 

「しかたありません。私たちは必ず死ぬのです。故郷を守るために命を落としたあなたのことを私は誇りに思います」


 そう言うと、ゼムリのそばに落ちた大ぶりのナイフを拾い上げて構えた。

 どうやら心は折れていないらしい。

 まだ戦える。

 そうして戦えるうちは戦い続けなければならない。ゼムリの為にも。

 モモックの一撃が魔獣の接地部分を吹き飛ばす。

 さすがに浮いた状況では力が発揮できないのだろう。蟹にとどめを刺そうとしていた魔獣がぐらついた。

 

「ああ、空は何色でしたか?」


 不意にクロアートが呟いた。

 空はまだ暗い。夜の色をしている。

 しかし、彼は眩しそうに空を見つめている。


「曖昧な生と死の、繰り返される意味とは?」


 そう言うと、周囲を見回した。

 おどろおどろしい魔獣と巨大蟹、死者と息の上がりかけた僕たち。

 しかし、クロアートの表情はまるで黄金色の麦畑に立つように穏やかなものだった。


「あなたの教えの結果、誰かを傷つけてしまえばそれは罪ではないのですか?」


 ゆっくりと両手を上げ、自らの顔を覆う。

 ただそれだけの、場所を考えなければ普通の行為である。

 しかし、明らかにクロアートの様子は尋常ではなかった。

 空間が引きつり、歪んでいる。

 両手を外したとき、クロアートの両目は黄金に輝き、表情は不安げに震えていた。

 なんだこれは。

 目の前で起こる現象に理解が追い付かず僕は困惑した。

 それは僕だけではなく、グロリアもアスロもモモックも、それどころか魔獣や蟹たちまで動きを止めていたのだ。

 クロアートが深く息を吐く。

 いや、魔力だ。

 僕も体験した迷宮の一番深い階層と比しても濃密すぎる魔力をクロアートは口からこぼしていたのだ。しいて言えばトロール騒動の時に遭遇した猿の神が放つ雰囲気に似ている。

 理解の及ばぬものを纏めて神の仕業にするのだと誰かが嘯いていたが、まさしくこれは想像すらつかない神の仕業だ。

 クロアートは内部からこぼれる魔力を隠しもせずに立ち尽くしている。

 その威光に喉が詰まり、僕は膝を着いた。目がチカチカと明滅し、思考が鈍くなる。

 一体、なんだというのだ。

 周囲が真昼の様に明るくなっている。

 その明るい丘陵に立つクロアートを見て、なんとなく解った。

 理屈ではなく、形容しがたい感情が胸に渦巻く。

 おそらく、クロアートが信仰する何者か。あるいはその類がクロアートの異常な信仰心の高まりに呼応して、現れたのだ。

 クロアートの内部にいるそれは、魔獣に手を差し出すとゆっくりと口を開く。


「荒ぶる赤子よ、おびえずともよい。ゆっくりと眠り、時が来たら目覚めなさい」


 ただ優しく語り掛ける。それだけで魔獣の戦意が失せたのが分かった。

 触手の一部を地面に深く差し込むと、そこを基準に魔獣はズブズブと地面に潜っていった。

 魔力を追えば深く、深く、地中を沈んでいくのが分かる。

 おそらくはこの何者かわからない者の言葉に従い、地面の下深くで眠りにつくのだろう。

 

「そこの鎧、君も望むのなら連れて行こうか?」


 クロアートの口から出た言葉に、ゼタは首を振って拒絶を示した。

 それだけで諦めたようで、クロアートの手は自らの顔を撫でる。

 

「忘れずにいなさい。この地で多くの命が失われたことを。殺し、奪い、生きるのは君たちの性であるのだから、それを否定することはせず、それでもそれ以外の道を模索し続けるのです。それが苦しくとも進むべき方向なのだと心に刻みなさい。わかりましたね」


 朗々と言い渡すと、クロアートを徐々に光が包んでいく。

 それもあっという間に全身を覆い隠し、ほんの僅かで光が消えると、そこにはもうクロアートはおらず、彼の存在を示すものも何も残っていないのだった。

 戻ってきた暗闇と、風さえ物音を立てるのを憚るような静寂がそこに満ちていた。

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