第536話 到達

 疲れた。

 息苦しさを自覚した瞬間、僕は地面に両膝を突いていた。

 仲間が口々になにか言いながら駆け寄ってくるものの、その音は分厚い壁の向こうから伝わっているように遠く、鈍い。

 視界の隅にはクロアートがどこからか呼び出した石像が、傾いたまま地面に刺さっていた。

 すぐに視界が横に流れ、空だけが占めた。

 遠い、遠い星々の光が遙か彼方から僕の目を刺す。

 もはや瞬きをすることも許されない。

 呼吸をするための胸の動きさえ、鉛で抑えられている様で息が吸えない。

 初めての経験だけど、明確にわかる。

 魔力が尽きたのだ。

 召喚した蟹が魔力をもって物理法則に逆らい、魔力が尽きれば元通りの理にからめ取られて絶命するように、僕の生命も巨大な理の内に埋没しようとしている。

 地上の世界では、巨大な蟹も僕も違いのない歪な怪物なのだ。

 ウル師匠やナフロイが地上で感じていた息苦しさとは、おそらくこれで、成れ果てた者は耐えられなくなってついに迷宮に堕ち、二度と還らなくなる。

 そうして、ようやく気づく。

 僕はずっと、この息苦しさを感じていながら見て見ぬふりを続けていたのだ。

 守るべきものがあるから、やるべきことがあるからと自分に言い聞かせ、いつのまにか魔力欠乏による苦しさを紛らわす為の魔法なんて無意識に使ったりしながら、地上にへばりついていた。

 

『傷よ、癒えよ!』


 おそらくほとんど残っていない回復魔法をグロリアが唱えた。

 流れ込んだ魔力がわずかに僕の内を満たしたが、所詮達人認定で迷宮を離れた者の魔力だ。

 小さくて薄い。

 すぐに視界も滲み、暗闇が迫ってくるのがわかった。

 グロリアのおかげで吸えた一呼吸を言葉に換えて吐き出す。


「ゴメン、蟹に気をつけてね」


 蟹を操作していた魔力が途切れる。

 すると、彼らは今から三十数匹の蟹と戦わねばならない。

 我ながら間抜けな最期だと思いながら、意識が途絶えたのだった。


 ※


「アニキ、来ましたぜ!」


 ハメッドは配下の報告を聞きながら自らもその粉塵を見ていた。

 アスロたちが二万の本陣を叩くと言って出て行き、四日目の昼だった。

 街の外延部にある家屋を二列分取り壊し、残った家の壁と併せて防壁を築き渡河した騎馬隊の襲撃を待ちかまえていたのだ。

 

「配置に着け。落ち着いて戦えよ、ここ挫いたったらワシらの勝ちやぞ!」


 街中に響けと言わんばかりの大声でハメッドは叫ぶ。

 裏を返せば、まだ勝利を手にしていないという事実も横たわっていた。

 ハメッドは少し背の高い建物の屋根から近づいてくる敵軍を観察した。

 騎兵が少なくみて八百。背後に歩兵が千五百から二千程度続いている。

 全員が騎馬兵だったのだろうから、徒歩の連中の馬は潰して食料にしたのだ。

 危なかった。表から攻められている時に、裏からこんな連中に攻められたら多少の防備があろうとも、ひとたまりもなかった。

 かといって、この街と橋を抜けなければ死を免れない連中が詰め寄せるのだ。楽ではないし、それどころか突破されて大損害を被る可能性も十分にある。

 

「兵力的にはこっちが多いがな」


 望遠鏡のぞきながらユゴールが呟く。

 

「なんの慰めにもなりゃ、しませんけどね」


 ハメッドは苦笑して髪を掻き上げる。

 向こうは軍隊で、こちらは難民の寄せ集めがすこし防衛戦の経験を積んだだけ。

 しかも、向こうで馬に乗っているのは騎馬民族の騎兵隊の中でも温存された精鋭だ。

 突破口を開けられ、歩兵がなだれ込んだらこの街は地獄の様相を呈すだろう。

 

「いつも思うねんけど、一族を養うっちゅうのは大変ですな、オヤジさん」


 なにを今さら、という表情でユゴールはタバコを咥える。


「ワシなんていつも、酒飲んでる時も寝てるときでさえ、悩んでんねん。オマエもたまには気張れや」


「アスロらはまだ戻ってこんのでしょう。こういうときこそアイツの出番やっちゅうのに。戻ってきたらシバきあげたる」


 ハメッドが出した斥候の報告によれば、メッシャール軍の物らしきゴミなどは何カ所かで見つけたものの、ついに陣地自体を発見することは叶わなかった。

 これが、あのアナンシとかいう男のいうとおりにメッシャール軍を撃退することに成功したのか、それとも斥候が無能だったのか判断が付きかねる。

 が、いずれにせよ表も裏も備える程の兵力はないのだ。

 砦方面には百名ほどのみを配置し、主要な戦力は市街地の防衛に割いていた。防壁の後ろに槍や弓を持った兵士たちが身を隠している。

 やがて、銃の射程距離ぎりぎりまで来て歩兵と騎馬が展開を始めた。

 後詰めもない。補給もない。

 眼前の敵を皆殺しにすれば終わりのシンプルな勝利条件。

 しかし、言うほどに簡単ではない。

 メッシャール軍の第一陣は数十騎程の集団で、眼下に広がる郊外の平原を左から右へと駆け抜けつつ騎射を仕掛けてきた。

 こちらからも矢が飛び、銃撃が行われたが、狙い、撃ち、矢玉が到着する頃には移動している。

 飛道具がまっすぐ向かってくる敵に対して効果が大きく、高速で左右に移動する標的には効果が薄いのをよく知っているのだ。

 防衛側は浮き足だち、続く第二陣の騎兵隊にも一方的に矢を打ち込まれる。


「続々とやってくるし、そっちばっかり見よったら歩兵に取り付かれるな」


 一方的に有利な城壁の上だったから、急拵えの兵士でも戦えたのだ。

 歩兵が柵を越えてきて、平地で五分のたたき合いになればどれくらい戦えるものか。考えるのも恐ろしい。

 渋い戦況に、ハメッドは顔をしかめてため息を吐くのだった。

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