第532話 選練

 山肌を流れ落ちていった粘性の魔物は、それでも巨大な魔力を体積に転化しながら膨張を続ける。そうして流れ過ぎたあとには雑草も残らず食べているのか無残な赤肌が広がっていた。

 メッシャール軍を包囲する蟹の、意図的に作られた巨大な輪の切れ目から流れ込んでいくと、魔物はそのままメッシャール人たちを押し流した。

 薄暗い日の出前、遠くでワアワアと混乱の音が聞こえる。

 巻き込まれた者は即座に飲み込まれ、逃げようとした者にも触手がのばされ、捕まえられた。

 

「どうゼムリ、ちょっとは神話的かな?」


 僕は振り向いてゼムリに問いかける。

 彼は身を固めて眼下に起こる皆殺しを見つめていた。

 

「こ……これは」


 彼の視線の先では触手からも逃げおおせた筈の兵士たちが、突如首をおさえてバタバタと倒れていた。

 すぐに彼らを内部から食い破った粘性の魔物がぼこぼこと穴を開けながら覗き、全身を溶かすと増えたまま本体に合流する。

 粘性の魔物は自らを飛沫として飛ばしたのだ。


「おっと、いけない」


 あまり拡散されてしまうと本当に収集がつかなくなる。

 

『輪よ、綺麗に閉じろ!』


 迷宮への穴から吹き出た魔力を練って、僕は唱えた。

 すると、円形に点々と配置された三十六匹の巨大蟹が暗闇の中でぼんやりと光り出す。

 あらかじめ蟹の甲羅には魔法陣が刻んであり、それぞれが同期して発動するのだ。

 魔力の線が蟹をなぞって輪を描き、それぞれの蟹からまた複雑な線形が結ばれていく。

 ついに巨大な魔法陣はメッシャール軍陣地と粘性の魔物を囲み、完成した。

 膨張を繰り返し、魔法陣の外線に触れた魔物の一部がバチバチと音を立てて焼き焦げた。

 そもそも魔法陣とは悪魔を閉じ込める結界が原義である。効果も悪魔に対するものがもっとも強い。

 そうして、悪魔の力を原動力にする粘性の魔物にも効果は十分らしく、しっかりと動きを封じこめていた。

 しかし、悪魔を封じる結界は人間には効果を現さない。

 蟹の爪を逃れ、粘性の魔物からも逃げ切った連中がチラホラと結界から這い出てくる。


「皆で大きく火を振って」


 僕が命じると、ゼムリは篝火台から燃えかけた薪を一本取り出し、大きく振った。

 アスロやグロリアもそれに続いて薪を振り始めた。

 それに気づいたのだろう。

 逃げ延びた百名ほどのメッシャール人がこちらに集まってくる。


「ほお、なるほど。彼らをこちらへ寄せて一息に殺すのですね」


 眼を青く光らせたクロアートが話しかけてきたが、僕は首を振って答える。


「せっかく生き残ったんだから、生きて故郷に帰って貰おう」


 これが千名ならともかく、百名であれば大勢に影響はない。

 それよりも帰って貰って、王国領に踏み込んでヒドい目に遭ったとか恐ろしいものを見たとか喧伝して貰った方がより、効果的だろう。

 

「そんなことより、僕たちにはこれから大事な仕事があってね」


 僕が指さす先で、二万人のメッシャール人が粘性の魔物に取り込まれ、呆気なく消え去っていた。

 魔物は出口を探してはあちらこちらの結界にぶつかり身を焦がしている。

 与えられた食料を食い尽くした大食漢は、膨大な体積を満足させる次なる獲物を探して藻掻き苦しんでいるように見えた。

 少なくとも地上にあっては不自然を煮詰めたような生命体だ。自らの生命を保つため、蓄えた魔力を使い果たせば死に絶える。

 でもそれをのんきに待つほどの余裕は僕たちに与えられなかった。


ギギギギギ……

 

 不気味な音が周囲に鳴り響く。

 

「アイヤン、なんかアイツ鳴きようばい」


 モモックが手に小石を握りながら喚いた。


「あれは……軋んでいる?」


 クロアートも眼をこらして魔物を見つめる。

 魔力を感知できる僕だけが、事の推移を正確に把握していた。


「共食いを始めたんだ」


 あの魔物は巨大な一匹の粘獣に見えて、無数の微少な生物の集合体である。

 腹が減れば隣にいる同類を喰う。単純な行動が彼らの中で行われていた。

 魔物は見る間に縮んでいき、時々不要になったものか液体などを各所から噴いた。

 

「あの魔法陣の結界ってさ、僕が考えたヤツで複層呪術とでもいえばいいのかな。手が込んでるんだけど……ちょっとやそっとでは破れないんだけどね。特に悪魔には」


 言いながら、僕は眉間に皺を寄せていた。

 ここまでは計算どおりだけど、そう思った通りうまくいく事ばかりでもない。

 迷宮都市には『悪魔を利用するな』ということわざもある。

 ぐぐぐっと小さくなっていく魔物。こちらへぞろぞろと駆け寄ってくるメッシャール人。


「アイヤン、ひどい汗かいとうけど、ダメとやったらはよ言うてね」


 モモックは鉄管を取り出すと口にくわえる。

 釣られた様にクロアートも胸の小袋を取り出して紙片を口に放り込んでいた。

 彼らは迷宮に潜り続ける現役の冒険者であり、事態を理解するよりも早く脳内で警報が鳴っているのだ。


「あのね、あんまり言いたくはないけどさ。あれの中で凄い勢いで順応がすすんでいるみたい」


 およそ、迷宮内で行われる喰い合いが凝縮され、魔物の中で展開されていた。

 僕の全身の肌も粟立ち、最大限の警戒が必要だと知らせている。

 普段、見ることもないような高位の悪魔を飲み込み、そして二万人のメッシャール兵士を飲み込み、同族と喰らい合いを続けたそれは、いつの間にか全ての色を凝縮したような真っ黒に染まっていた。

 湖の水の様に巨大だった体積が、最終的には巨大蟹の半分程まで縮んでいる。

 

「ああ……やっぱりダメだね。全員、戦闘態勢!」


 ドカン、という音がして結界の外にいた蟹が一匹粉々にされていた。

 相克を利用した結界が正面から破られた。生半な力ではない。

 次の瞬間、それは地面を蹴りつけ飛んだ。

 バチンという音を残して、こちらに駆け寄ってきていたメッシャール人の半数がバラバラに砕けていた。

 不定形の魔物は、既に十分すぎる移動能力を獲得し、僕たちの前でドロリと歪むのだった。

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