第531話 B案

「アイヤン、あれ遅くなか?」


 我慢しかねたのだろう。

 モモックがポツリと言った。

 彼の言うとおり勇壮に丘を下っていく蟹たちは常人の歩行速度よりもノロい。

 

「まあ、蟹だから」


 僕は言い訳のように呟く。

 迷宮内にあっても積極的に動いて獲物を狩る魔物と、縄張りに入ってきた獲物を狩る魔物がいる。蟹は典型的な後者であるので移動能力はまったく高くないのだ。

 迷宮ではそれで問題なく、彼らは地に足を着けた肉弾戦に特化した種族とも言える。

 比較的魔法が利きやすいのでどうにか捕獲できたものの、そうじゃなかったらとても僕の手に負える相手ではなかった。

 ゆるゆると敵陣地に迫る蟹たちは人間の数倍も大きい体格からすぐに見張りに見つかったらしい。

 にわかに敵陣地が賑やかになる。

 だけど、かまいもせずに蟹たちはゆっくりと広がりながら歩いて行った。

 メッシャール兵士たちの動揺は解る。暗がりの中、巨大な蟹が群れをなして迫ってくれば、それは驚くだろう。

 距離は離れているけど、基地全体が騒がしくなってくるのが伝わってくる。

 

「あれで敵を皆殺しに出来るんですか?」


 あからさまにがっかりした様なゼムリが質問をしてきた。


「いや、無理だね。足が遅いし、魔力も薄いから」


 僕は回答しながらリュックの中に手を突っ込む。

 そもそも、普通の蟹が魔力にとりつかれて順応し、徐々に地下深く潜っていった。あるいは迷宮内で繁殖しながら降りていったのがあの蟹たちだ。

 敵を倒し、魔力を喰らい、高めていった能力が魔力のない地上では裏目に出る。

 大きくなりすぎた体を支える筋肉や内臓。そういったものの働きには大きく魔力が関係している。周囲の魔力が薄ければ抱え込んだ魔力を消費しながら賄う以外ない。


「あの蟹がそんなに便利ならもっと早く使ってるよ」


 蟹は猛烈な勢いで体内の魔力を消費し、やがて呼吸も出来なくなって死ぬだろう。

 動かなければ消耗はぐっと小さくなるだろうけれど、それでもよく持って夜明けまでか。

 だが、メッシャール兵が投げた石が蟹の分厚い甲羅に跳ね返される。

 それが弓矢だろうと槍だろうと、丸太の一撃でも効果は発揮されない。

 迷宮の地下二十階というところはそんなに優しくはないのだ。

 不用意に近づいたメッシャール兵が同階層の悪魔や魔獣さえ捕食するハサミにバラバラにされた。

 陣地の反対側でも同じように数人が蟹に近づいて粉砕され、基地全体に緊張が走ったのが解る。

 

「あれで押し包んで攻撃させるんですか?」


 悠々と陣地を包囲した蟹を見てグロリアも眉間に皺を寄せていた。


「それも無理。一回の攻撃で一人を殺しても全部で三十六人だから百回攻撃しても三千六百人しか殺せないよ。それも近づいてくれたらの話で、包囲の隙間も完璧じゃないし、その前に隙間から大勢を逃がしちゃう。だから、あれはあくまで敵をしばらく足止めして貰う壁役なんだ」


 僕はリュックから取り出した二つの物を手に、まだ迷っていた。

 片方はカロンロッサがくれた『迷宮深くの宝箱に仕掛けられていた罠の仕掛け』。

 もう一方はオルオンがくれた『なんだか予想外に凄い物が出来たけど目的と違うので要らない失敗作』。

 少し考えて、カロンロッサから貰った藍色の仮面をリュックに戻した。こちらは被害が広がりすぎる可能性も高い。

 オルオンがくれたのは灰色の瓶だ。これはこれで嫌な予感しかしないけど。

 仲間たちに死体を集めさせると一箇所に積み上げた。


「ちょっと、さがっててね」


 なんて言うまでもなく、コルネリ以外の皆は距離を取ってこちらを見ていた。

 まずは一号から貰った青いリボンに魔力を通すと、腕がどうにか入る程度の穴が中空に開く。

 その穴から地下十五階の濃厚な魔力が吹き出してきて僕の鼻を香しくクスぐった。

 

『荒野を踏み砕き、蹂躙する軍神よ。哀れに彷徨う旅人の首を刎ねたまえ』


 ゴォォ、と低い唸りを上げ不穏な空気が満ちる。

 同時にアスロが殺した死体が全て目から真っ赤な血の涙を流しながら立ち上がった。

 いつの間にか彼らの口から厳かな呪詛が神々しく流れ始め、混乱の賛美歌を高らかに歌い上げる。ただそれだけで周囲の空気が毒気を帯びた魔界のそれに近づいていった。

 バチバチと稲光のような光が細かく走り、それが球状を成していくその周辺を死体たちが手を組んで踊る。

 いや、いつの間にかメッシャール人の死体は下級の悪魔たちに変貌していた。

 山羊のような眼が。四本の腕が。長く伸びた紫色の舌が切なくその者の降臨を願う。

 そのまま光球を取り囲む輪が縮んでいき、悪魔たちは猛烈な異臭を上げながら焼けただれた。

 それでも離れる事はせず、ついに全ての悪魔が惨たらしく果てて倒れる。

 恍惚に身を歪めた肉塊が少しずつ光球に飲み込まれ、やがて卵から抜け出るようにそれは現れた。

 黄金の翼を背に持つ偉丈夫である。

 あるいは黄金の鎧と紫の肌が眼に着くかもしれない。荒々しくねじれた二本の角が特徴的でもあろう。

 

「さて、貴様か。ワシに喰われたい者は」


 顕現した悪魔は朗々と問うた。

 そう。この魔法は『自らを殺してくれる上位悪魔を召喚する魔法』なのである。

 秘術狩りの中で覚えた当初はドコで使うものか途方に暮れたものであるが、現に今、僕の目の前に強力な悪魔が立っている。


「そういう魔法で呼んだのは確かなんですけど、申し訳ない。実は死にたくないんです」


 僕は瓶の蓋を開けて悪魔の足下に投げ捨てた。

 瓶の口からはドロリとした液体がこぼれる。

 フルフルと揺れて光るのは、スライムなんかとはまた違う粘性の魔物だ。

 ゴミや死体を食べて分裂を繰り返す粘性の生物は順応を繰り返すうちに生きている魔物にも襲いかかるようにもなる。オルオンの話によればむしろキノコに近いらしい魔物は、妙な改造を受けて変な技能を獲得していた。

 悪魔を捕食して魔力を吸収する。そうして、吸収する悪魔が強力であればあるほど、強力な能力を発現するのだという。

 ドン、と音がして粘性の魔獣は悪魔に纏わり付いた。

 悪魔が不快そうな表情を浮かべたのは一瞬だけで、すぐさま驚愕の表情のまま増殖した魔物に飲み込まれていった。

 悪魔の膨大な魔力を転化したものか、無から汲み出されたかのように膨張した粘性の魔物は一息に小山のように膨れ上がり、一呼吸をおいてさらに数倍へと体積を増した。

 同時に無数の触手がこちらへ伸ばされた。

 魔力の源として悪魔を食らうが、それ以外にも食えるものは何でも食らう。分解者としての本能は残されているのだ。

 しかし、僕が結界でそれを防ぐと、骨を持たないドロドロとした粘液状の魔物は重さに負けて丘を流れ落ちていくのだった。

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