第530話 蟹王
メッシャール軍の野営地は徒歩でもそう遠くない場所にあった。
なんなら日が沈んでもまだ遠くの高い山には光が当たっている。
考えてみれば当然で、彼らはこの距離を朝夕に行き来するのだ。遠すぎると無駄に体力を消費してしまうので、即座に攻め込まれない程度の距離を開けて駐留しているのだ。
そこは窪地になっており、低地は雪解け水が流れ込んでぬかるんでいた筈だ。
少し穴を掘れば簡易の井戸が出来て、水の確保に都合がよかったのだろう。
数千の天幕が張られており、炊煙がそこかしこで上がっているものの、燃料はどこから持って来たものか。
「アナンシさん、見張りは大体やっつけたけど」
アスロが戻って来て報告した。
基地を見下ろすちょっとした高台に行きたかったのだけど、十名ほどの見張りがいて邪魔だったので彼に排除を頼んだのだ。
「うん、ありがとう。それで、君たちはどうする?」
僕は振り向いて着いてきた連中に尋ねた。
モモックとグロリア、ゼムリにクロアートまで断ったにもかかわらず同行していた。
キィ、とコルネリが抗議の声を上げるのは頭数に数えられなかったからだ。
僕たちはほとんど一心同体なのでわざわざ数えなかっただけだけれど、詫びながら背を撫でる。
「どうとは?」
クロアートが苦しそうな表情で答えた。
どうも戦闘中に摂取していた秘薬が体内で分解されつつあり、猛烈な苦悩にさいなまれているのだ。
「僕としては、今からすごく危ないことをするから皆にはこの辺で帰って欲しいんだけど」
危険こそ望むところだと言おうとしたのだろうクロアートを押しやってグロリアが口を開いた。
「十数名の手勢で数千の騎兵に挑む事を考えればどちらも危険なことに変わりはありません。かの侵略者たちを追い払えるのであれば、方法の如何も私の生死についても問いません。なんなりと命じてください」
そう。僕は方法があるのだと言ってしまった。
他の人たちは精一杯やっても、命がけだろうが方法がないのだ。
だから、それが出来る僕に注目をする。
「でもね、あんまり見られたくないんだよ」
僕はため息を吐いて頭を掻いた。
一応、掻き集めた秘術を知らしめたくないのもあるが、僕が死んだ場合には彼らに様々な手段を講じて貰わねばならないのだ。
「じゃあ、俺は帰ってもいい?」
アスロがのんきに呟いて、モモックがその足を蹴る。
「申し訳ないけど、僕が死ぬときにはアスロも死んでよ。他の連中は僕の配下という扱いだけど、君だけは僕と対等な関係らしいから」
親方同士であり、彼が死んでも僕が責任を被る必要はない。戦力になるのならユゴールも連れてきたかった。
そういった意味でまったく気楽な関係だ。
アスロと僕が砦を離れるとき、泣きながらアスロとの別れを惜しむ少女がいたことに目をつぶれば、であるけど。
「なんにせ、ここで勝っとかないかんちゃろうけ。ボチボチやろうや」
日が沈んで冷えた空気が吹きすさぶ。
南方種族のモモックは寒いのだろう。外套の襟を抑えていた。
「僕は……」
ゼムリが細い目をこちらに向けて言葉を探しながら口を開く。
「本当に二万人も倒せるのなら、それはもう伝説や神話の域だと思うのです。だから、現実に伝説が作られるのならこの目で見たくて」
そういえばこの少年は多頭竜を見て感激していた。
しかし、神話の怪物や伝説的戦闘など迷宮の深層に潜ればそれが当たり前なのだ。
「あんまりね、口外して欲しいものじゃないから、何を見ても心の中にしまっておいてくれると助かるよ」
苦笑する僕に、ゼムリも嬉しそうに微笑む。
他人に対して距離を取る少年だと思っていたけど、案外と人なつっこさもあるのかもしれない。
僕たちはアスロが兵士を排除した高台の見張り所に移動した。
天幕が一つあり、九体の死体が転がっている。
眼下にゆったりと広がる平地と、天幕の群れ。
駐屯地は密集しているので端から端まで千歩程度といったところだろうか。
肝要なのはまず、敵を逃がさないことだ。
その点は馬がいないので非常にやりやすい。
そうして、彼らに対する同情を一切持たないことも大事で、それに次いで僕たちが死なないことも並べられる。
「ねえゼムリ。僕のあだ名は『魔物使い』なんだよ。これからやる戦いがもし他の人にばれたらあだ名が『魔王』とかに変わっちゃうかもね」
「ツヤ付けとらんで、はよせんや」
適当な小石を集めながらモモックが怒鳴る。
しかし、神話などと呼べる綺麗な戦い方にはならない事をあらかじめ言っておきたかったのだ。目を輝かせる少年を落胆させたら悪い。
「そんなわけで、もしかすると最後にはメッシャール軍よりも手強い敵が残るんじゃないかと思うけど、皆で力を合わせて乗り切ろうね」
それはグロリアもモモックも、クロアートもあらかじめ想定していたらしく頷いた。
しかし、アスロは顔をしかめて驚いている。
「え、アイツらより強いって?」
「『荒野の家教会』出身の高位僧侶がとんでもない悪霊を呼び出して敵を倒した事があるんだ。厳重に縛られていても危険な力を持つ存在だった。例えば僕も悪魔族を呼び出して戦わせることもあるけど、彼らは窮屈で本来の力よりずっと劣る能力しか振るえないんだ」
召喚魔法とはそう言うものだ。呼び出す対象が強力であればあるほどどこかで制御出来る様に枷を掛けなければいけない。
グロリアの表情が歪む。彼女は実際にステアが彼の者と呼ぶ邪神を目にした。
「ちょ……!!」
僕を止めようとしたのだろう。こちらに向かって手が突き出されていた。
しかし、既に魔法は発動しており、不可思議の魔物が地上に顕現する。
僕が呼び出したのは邪神などではなく、人の倍ほどもの体高を誇る迷宮地下二十階前後に棲まう巨大蟹の群れだ。
その数は実に三十六匹。
泥のような色をした巨大蟹たちは、僕が命令を下すと四つの群れに別れ丘を下っていくのだった。
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