第497話 交渉

「やぁ、姉ちゃんイイなぁ」


 酒瓶を手にしたジプシーの男が立ち上がると、グロリアに馴れ馴れしく肩を組んだ。

 彼が酔っているのは目つきを見れば明らかである。


「あ、こら!」


 シアジオが助けに入ろうと前に出るよりも早く、グロリアが手を突きだして制止した。


「酒を飲むことは罪ではありません。酔うことも罪ではありません。しかし、この腕はいけませんね。双方の納得が用意された上でなければこのような行為は問題を生むでしょう」


 そう言って、優しく腕を払うものの酔っぱらいのジプシーは気にせず、再度腕を回した。

 ムッとした表情のシアジオは今度こそ間に話って入ろうとしたものの、やはりグロリアは笑顔で首を振り、それを断った。


「ええやんけ、互いに納得でもなんでもしたらええねんやろ。ほんなら納得してぇや」


 一見したよりもずっと、男の酔いは深いのかも知れない。

 しかし、あくまでグロリアは冷静に笑っていた。


「では、私も触れ合いに納得しましょう。これでも宣教師の端くれ、そういう交流も仕事のうちです」


 彼女はいったい、なにを言っているのかと僕が思うよりも先に、グロリアの手の甲がヤニ下がった男の顔に叩き込まれていた。

 続いて、逆の手が肩に置かれた手を捉えると、掴んだ二本の指を躊躇いなくへし折る。

 ペキッという軽い音が響き、握力のなくなった手はあっさりとグロリアに制された。


「顔を触り、手を繋ぎ、さて次はなんでしたか。そうそう。確かこう……」


 言い終わるよりも早く、男に向き直ったグロリアの足が跳ね上がり、膝が下腹部へと突き刺さる。

 男の顔は見る間に紫色に変じて、手にしたままの酒瓶とともに地面に崩れ落ちていった。


「ふう……さて、触れ合いはこんなところですか。足りないなら私の方はまだ続けられますけど」


 ほんの一呼吸の早業に周囲は呆気にとられていた。

 その視線の中でグロリアは満足げにうなずき微笑む。喧嘩好きの連中がひるむ程には苛烈に、一方的に暴力を行使したのだ。

 ほかの連中がグロリアに襲いかからないのは倒れた男のいかにも痛そうな様と、それ以上にグロリアが事前に発した言葉に縛られているからだろう。

 彼らは「互いに納得して触れ合った」のだ。それは第三者に対して明確に線を引き、制限をかける言葉だった。

 シアジオや僕が出て行けば始まったかもしれない、彼らと僕たちの喧嘩を、彼女は綺麗に収めて見せたのだ。


「あら、男女の秘め事を覗き見るなんて感心しませんね」


 グロリアは周囲に向かって笑うように言うと、男が手放して地面に転がる酒瓶を拾い上げる。

 ほとんどが地面にこぼれてしまった酒瓶を口に押し当てると、大きく喉を鳴らして残りを飲み干した。


「ともに酒を酌み交わし、刺激的な触れ合いを楽しむ。宣教師冥利に尽きますね」


 空になった瓶を手近なジプシーに投げやり「御馳走様」と告げた。

 彼女の歌で熱せられた空気は、彼女の暴力によって冷え切っていた。


 ※


 グロリアと別れて、僕とシアジオは農村の村長の家に向かった。

 村長の家の前にはおそらく、拷問を受けて殺されたのだろう死体が三つ転がっていた。

 僕が引き渡した傭兵崩れなのだろうが、その凄惨な死体を見れば生前の彼らがこの村に対してどのように振る舞っていたのかが窺い知れる。

 それをひょいと跨いで、村長の家の戸を叩く。

 と、すぐに村長の奥さんらしき老婆が戸を開けてこちらを睨んだ。


「誰?」


 治安の悪い時期を過ごしてきたこの村には、現在さらにジプシーという異分子がいるのだ。警戒ぶりもしかたあるまい。


「ガルダ商会のアナンシといいます。村長さんに会いたいんですが」


 僕が恭しく言うと、疑わしそうに視線を走らせる。

 僕はともかく大柄で強面のシアジオを連れてきたのは失敗だっただろうか。


「会長? そっちの大きい人がかい?」


「あ、いえ僕がです」


 愛想笑いを浮かべると、どうも信じがたい様なのだけど、それでも家の中に向かって大声で夫を呼んでくれた。

 しかし、それに応じて顔を出したのはジプシーの用心棒ハメッドだった。


「あら、会長さんやんけ。なにしてんねん。まぁええわい。入れや」


 まるで自分の家の様に僕たちを招き入れるハメッドに、そっちこそ何をしているのか聞きたかったのだけど、そんな隙はまったく与えられなかった。

 仕方なく、というように僕たちを通す老婆の視線に耐えながら、家に入ると居間では穀物倉庫襲撃以前から見かけなかった白い大ネズミが食事を食べていた。


「アイヤン、なんばしようとね?」


 これも、こっちの台詞であるがグッと飲み込む。

 木製の机には料理と酒が載せられているが、いずれも外でジプシーが売っている珍味と、昼間にユゴールが差し出した火酒だ。

 

「ああ、会長さん。……いらっしゃい」


 村長はぼんやりとした視線で僕を見つめていた。

 いや、その目は焦点など定まっていない。顔が真っ赤に染まっていて、酩酊状態にあるのは明らかだ。


「ほら、挨拶はあとにして。駆けつけ三杯って言いますよ、会長さん」


 村長の横に座っていた、気の強そうなジプシーの美女が僕とシアジオに器を渡す。

 

「あ、いや酒は……」


 飲めないと断るよりも先に、器には並々と酒が注がれる。


「リリーが注いだ酒や。一杯くらい飲んだれや、会長さん。村長さんなんか見てみい。美人に注がれりゃ美味い美味いっちゅうてパカパカ飲んではるわ」


 ハメッドが村長の隣に腰を下ろし、楽しそうに僕を見据える。

 あまり関わり合いになりたくない輩の目つきである。

 

「いえ、お気持ちだけで十分です」


 僕ははっきりと断って、器をリリーというらしい女性に押し返した。

 ハメッドはつまらなそうに僕を見たのだけど、器を村長の前に置くと真面目な表情で僕を見た。


「ほんで、村長さんに何の用やねん。もうこっから先、なに言うても明日には覚えてないぞ」


 ハメッドの言うとおり、うっすら光っているのかというほど真っ赤になった老爺に何を期待しても無駄だろう。

 しかたがないので、遠巻きに机を眺めている老婆に向き直った。


「それじゃ、奥さんでもいいんですけど。あの、この辺の森の伐採権を売ってくれませんか?」


 急に話を振られた老婆は「え?」と聞き返し、ハメッドは興味深そうに「ほう」とつぶやくのだった。

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