第31.5話 【番外編】兄妹の暮らし
雨が降りそうで降らない。そんな薄暗い窓の外を眺める兄がいつになく険しい表情を浮かべている。
その冷たい視線が不機嫌なのか、怒りなのか、困惑なのかメリアには分かりかねた。
しかし、人の気配に敏感な兄はすぐに息を殺すメリアに気づくと、いつもの優しい笑みを浮かべる。
「やあ、どうしたメリア?」
兄と仕事で対面する人間は、この男がこんな顔で笑うなんて思いもしないだろうとメリアは思った。
兄妹二人で住む家は狭いが、机も寝具もあり、満たされている。
そうしてそれは優しい兄の、おそらくは無理な働きと引き換えに得たものであることをメリアはすでに知ってしまっていた。
兄を直視できず、やや視線を伏せながら用件を告げる。
「夕飯、貰って来たから食べよう」
「うん、そうだね。ありがとう」
兄は朗らかに笑った。
年齢の離れた優しい兄。
親のいないメリアにとって頼るべき兄。
両親が殺された後の、最後の家族。
メリアは薄暗くなった室内で籠からパンと、煮物の入った皿を取り出した。それに粥が注がれた小鍋もある。どれも教会の給食所で配られたものだ。
メリアは水瓶から二人分のカップに水を注ぐと、机に置いた。
「俺は、仕事の時に食べて来たから少しでいい。メリアはたくさん食べな」
兄は席についてメリアに料理を押しやった。
仕事の都度、御馳走が振る舞われるのだという。
メリアもほんの少し前まで無邪気にそれを信じ、兄の語る食べたこともない料理によだれを垂らしていた。
しかし、嘘だ。
それなら何故、兄は痩せていくのか。
頻繁に呼び出される仕事の都度、兄は食事を抜く。
一見して快活な兄の、儚げな微笑みがここのところメリアには辛くて仕方がなかった。
「ねえ、お兄ちゃん。ここを出てどこかへ行こうよ」
徐々に弱っていく兄に、メリアは精いっぱいの言葉を投げかける。
信徒が身を寄せ合う山間の集落だっていつまでも無事ではないだろう。
以前の集落と同じ様に、やがて王国の討伐隊がやってくる。
「私も働くから、どこか二人でさ」
もはや何度目の提案だろうか。
しかし、それを受けた兄の表情はいつもと同じく石像の様に空疎なものだった。
「無理だね。もう今となっては」
その視線が自らの手に落ちる。視線は軽く握った左拳の爪を撫でていた。
汚れてしまった手を見ているのか、その手で奪った生命と向き合っているのか、メリアには判別がつかなかった。
「汚れ仕事をしすぎたから、逃げれば教団が追っ手を出すだろう。仲間を手にかけるのも、仲間の手にかかるのもごめんだ」
兄は教団が抱える暗殺者である。
頻繁に指導部へ呼ばれ、その都度、標的の命を奪って戻ってくる。
その兄が半月ぶりに戻って来たのは今朝のことだった。
「それに、父さんも母さんも許さないよ」
「許されなくてもいいじゃない!」
何年も前に死んだ両親を、メリアはおぼろげにしか覚えていない。
優しかったのだと思うけれど、それも確証はないのだ。
兄がその存在を大事だと説いても、本質的には理解できなかった。
「誰か来たら、説得しようよ。そうして、逃げて新しい土地で暮らすの。教団の教えも棄てて……」
「それ以上はいけない」
兄の悲しそうな表情に、メリアは口を噤んだ。
いつもこうだ。
メリアだって兄を悲しませたくはない。兄もそう思っていることを知っている。
普段は仲のいい兄妹の、たった一つの意見の相違。
どちらが正しいのか。それもわからない。
「俺は生きている限り教団に付き添う。それ以外の生き方はないんだ」
どういう覚悟か、この話題の時にだけは兄が不気味な怪物に見える。
ザア、という音が外から聞こえ始めた。ついに雨が降り始めたのだ。
「もうすぐ……」
窓から外を睨みながら兄は呟いた。
視線は迷うように中空を漂った後、メリアに戻って来た。
「この家を出ることになる。二度と帰らない。忘れ物をしてはいけないが、道中の不便も困る。持っていく荷物はよく選んで最小限にしなさい」
無理に笑顔を作ろうとして、作り切れない妙な表情で兄は言う。
突然の発言だが、今までも集落が襲撃されて着の身着のままで逃げたことが二度、あった。
メリアは静かに頷いてパンのカケラを口に放り込む。
兄と二人で過ごし、それなりに愛着のある家だけどしかたがない。
持っていくものの選別を頭の中で始めた。
「ねえ、今度はどんな場所かな。遠いの?」
「……ある意味ではとても遠い。しかし、行こうと思えば一瞬だ」
謎かけのような説明にメリアは首をかしげる。
「どういうこと?」
「今夜、雨に紛れて出発するが、向かう場所はとある洞窟だ。全信徒がそこへ集まる。そうして、最後の祈りが行われるそうだ」
「それって、皆で死ぬってこと?」
メリアの問いに兄が頷いた。
背筋に鳥肌が浮くのを感じながら、メリアは呻く。
舌の付け根が妙に乾き、水を口に流し込んだ。
飲み終わり、口を拭っても兄は黙っている。
「嫌だよ。ねえ、お兄ちゃん、そんな場所へ行かずに逃げよう!」
メリアは教団の教えに心酔などしていなかった。むしろ、生活の苦しさは教えに傾倒しすぎた故ではないかとさえ思っていた。この上、命まで召し上げるとなれば、もはやそんなものは捨てて逃げるべきだ。
「俺たちは皆、助け合って生きて来たんだ。その食べ物だって、この家だって、みんな教団から与えられた。恩があれば、それに報いたい。俺はそう思うよ」
儚げに笑う兄が憎かった。
人が良すぎる。なぜ、もっと自らのことを省みないのか。欲求と素直に向き合わないのか。
たしかに教団への恩もあるが、兄が暗殺者として働き始めるまでの兄妹への扱いはひどいものだった。メリアに、それを忘れることは出来ない。
「そう……か、メリアは嫌なんだな」
メリアの表情を見た兄は呟き、窓の外に視線を逃がした。
たまらなくなってメリアは痛いほどに拳を握る。
「嫌だけど、一緒には行くよ。だって、他の生き方を知らないもの」
メリアは泣き出しそうな気持を隠し、兄に告げる。
そうでなければ兄が泣いてしまいそうな気がしたのだ。
恩も、愛情もある。
教団などではなく、命を懸けて自分を守り、育ててくれた兄に対して。
その思いに報いることができるのなら一緒に死んでやるのも悪くないのかもしれない。
何より、兄のいない生活は想像もできないのだ。
だから置いていかないで。メリアは強く思う。
窓の外での雨は勢いを増し、雨音は煩いほどに大きくなっていた。
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