第400話 異修羅ごっこ
携えた槍が振動して知らせる。
逃げろ、と。
腐朽の森のフルミットは棹を強く握りどうにか御した。
そんなことは誰に言われるでもなく判っているのだ。
しかしそのような選択肢は今更とれない。
今更とは果たしていつからだったろうか。
仲間に誘われ迷宮の深みに呑み込まれることを快諾したときか。
迷宮で意志持つ魔槍を手に入れた時か。
冒険者として迷宮に入りだしてからか。
それとも幼少期、行商人を襲い生き物を殺す快楽を知ってからか。
あるいは生まれる前のはじめからそうだったのか。
闘争が好きで楽しく、自分でも才があったと確信している。
仲間たちも同じような連中で、地上に出れば一軍と渡り合うほどの力を持つのに面倒な前戯が我慢ならず、よだれを垂らして迷宮にむしゃぶりついた変人たちだった。
魔獣を狩り、悪魔を殺し、竜を屠ってきたパーティが今、かつてないほどの緊張に包まれている。
火撫ぜのオルトーカが素早く詠唱し、仲間たちに幾重もの魔法障壁を設えた。
併せて寂光のミルムも別種の補助魔法を連唱し、フルミットは自らの体に力が満ちて行くのを感じた。
いつもは饒舌な磁針のエリガドも目を細め、得物の双斧を構えている。
代わりに、普段はほとんど言葉を用いない緑灰のヤムが珍しく声を発した。
「おまえたちは、どいつもこいつも嫌なやつで……さっぱり好きにはなれなかったが楽しかったぜ」
こっちのセリフだ。
フルミットは厳ついヤムの言葉に言い返したくなった。
しかし、そんな余裕は既になく、戦闘に向かう能力を残して他の思考を落としていく。
いつだってそれでやりきってきた。深く、沼の底に潜るように息を止めて戦闘に潜っていく。そうやってこんなところまで潜ってきたのだ。
やがて、闇の奥からゆっくりとした足取りで禿頭の巨漢が現れた。
首に巻いた念珠と、気が抜けるほど無邪気な表情。そうして細い目つきが特徴的な東洋坊主だ。
武器を持っていないので素手か、あるいは魔法の使い手であろう。
フルミットはまだ遙か間合いの外にいる東洋坊主へ向け、油断なく槍を構えた。
かつて遭遇した最大の魔獣を比しても、その姿は巨大に見える。
なんだこいつは。
フルミットは東洋坊主が一歩近づくごと、世界が揺れるように感じた。
違う。これは戦闘というものになり得ない。
一同は全員、ほんの近い未来を確信していた。
東洋坊主が間合いに入った瞬間、オルトーカが呪文を詠唱した。
普段は歌うように美しい声で破壊をもたらす彼女が、まるで狂気に浸された様に金切り声で唱えた魔法は巨大な熱量を敵に浴びせるというシンプルなものだった。
太陽に直面すればきっとこうだろうという程の高熱が空間に発生し、東洋坊主を中心に展開した。
同時に熱で膨張した大気がフルミットに嵐のごとく吹き付けるが、まばゆい光を伴ってさえ見開いた目を細めさせることもない。
この世に肉体を持つ存在なら、たとえ高位竜であっても絶命させうる魔法はしかし、迫り来る敵に対してあまりに心許なかった。
まだ熱も光も収まらない空間に向けてミルムが体中に寄生させていた低位魔神を弾丸として射出する。
一息に八十体の魔神が超高速で打ち出され、東洋坊主を粉砕した。
いや、粉砕したはずだった。
光がかき消えた後、壁や地面まで溶かした中に東洋坊主は平然と立っている。その光景の方があり得なかった。
「あいつ、魔神を全部浄化した!」
ミルムが驚愕とともに吐き捨てながら、さらに数十発の魔神弾を打ち付ける。
しかし、そのすべてが東洋坊主の皮膚へ触れた瞬間に聖気へと昇華して消えていく。
かつて、強力な天使に対してだってそれなりの効果を発揮した魔神弾を無効化したのだ。
もはやどんな現象なのかフルミットには想像もつかない。
しかし、フルミットにとって結局頼れるのは槍なのだ。
あらゆる魔物を貫き、その血で磨き抜いてきた意思を持つ魔槍。
魔神弾の弾幕に潜んで接近し、死角から槍の穂を突き出した。
東洋坊主がいくら巨漢とはいえ体格的に巨人とは比すべきもない。手足の長さを鑑みても間合いの上では有利のはずだった。
「ほ」
次の瞬間には軽いかけ声とともにフルミットの膝が蹴り折られていた。
東洋坊主の胸を貫くはずだった穂先は消失し、棹は半ばから折れていた。
倒れながら、フルミットは短くなった槍の石突きで地面を突いて反転した。
投げられたエリガドの手斧が東洋坊主の手刀でたたき割られ、フルミットが投げつけた槍の残骸も手傷を負わせるには至らなかった。
「おおお!」
短棍を携えたヤムが唸りながら突進した。
鋼鉄のごとく硬化させた体でぶつかり、体勢が崩れたところに短棍を打ち込むヤムの必勝戦術だった。
「発気よし!」
フルミットの目に、東洋坊主の笑顔が見えた。
楽しくてたまらないという様に口角を歪め、ヤムを受け止めるとそのまま地面に投げ倒してしまった。
それだけでヤムは原型をとどめない程に破壊され、周囲に飛び散った。
その隙に飛び込んだエリガドが東洋坊主の禿頭めがけ、残った斧を振り下ろす。
いかなる敵も撃ち殺してきた必殺の一撃はしかし、東洋坊主の左腕を切断するにとどまり、即座に出された右拳によりエリガドごと粉砕されてしまった。
オルトーカの魔法によって怪我を回復していたフルミットは苦々しく表情を歪める。
既に自慢の槍もなく、肩を並べる前衛の仲間も壊滅した。
だからといって逃げることは出来ない。
戦いに生き、戦いに死ぬ。今がその時だ。
だが、最後までは勝利を目指そう。そうでないと楽しくないではないか。
フルミットはオルトーカとミルムの魔法に隠れて駆けだした。
ヤムの短棍を拾い上げ、手に馴染まない得物で再度東洋坊主へと襲いかかった。
しかし、東洋坊主の動きは素早く正確で、フルミットが短棍を振り上げて無防備になった腹を、次の瞬間には手刀が貫いていた。
臓物が破壊され、逆流する血液と生命の終わりを感じながら、目論見が成った安心感にフルミットはほくそ笑む。
パーティは六人で組むものだ。
最後の一人、闇沿いのカイリンが音もなく亜空間から飛び出し、奇襲を仕掛けた。
カイリンの毒刀が目を丸くした東洋坊主の胸に突き刺さる。その光景が目に映った最後となりフルミットの意識は途絶えた。
「なかなかにやる」
東洋坊主は毒刀を意にかいするでもなく、無造作に残った三人を撃ち殺した。
こういう連中といくらでも戦える。
そのことだけで身が震えるほどこころよい。
猛者たちの死体の上で、東洋坊主は静かに笑うのだった。
それは無限の混沌を真っ直ぐ進み、休息を必要としない精神を持つ。
それは、迷宮に満ちる魔力を底まで吸い己の力とする認識を持つ。
それは、あらゆる存在を打ち砕こうとする底なしの破壊衝動を持つ。
遙か彼方より来たりて、しかし悪意の迷宮の申し子である。
東洋坊主。 ██。
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