第360話 台無し
「サミとアルは?」
ルガムが落ち着くのを待ってから僕は聞いた。
「サミは私の布団でもう寝てる。アルは男の子部屋で兄ちゃんたちと寝るって」
かつて『恵みの果実教会』から預かったうちの年長組も、今では立派に成長して一部は工房などに住み込みで暮らすようになっていた。男爵国の孤児たちは教会の宿舎に寝泊まりしているので、サミを入れてもこの家の住民数は減っていた。
「アンタがいきなりいなくなるからアルは驚いてたよ。あの子にとっちゃ、全然知らない人しかいない家だからね」
そういわれると弱い。一号から責任をもって預かったつもりだったのだけど。彼を心細くさせてしまったとすれば一号の信頼を裏切ったことになる。
アルは特に迷宮の奥で母と二人、静かに暮らしている。父である僕が一緒にいてやらねば戸惑うにきまっているのに。
「つっても、まあ晩飯を喰い終わるころにはすっかり馴染んでアンタのことも綺麗に忘れていたけどね」
前言撤回。アルはなかなかたくましい子だ。
それに僕だって、自分の親にほとんど執着がないのだから、息子のアルがそうなるのもうなずける。
近くにいない親よりは身近な友人の方が有益だろう。
「それならいいや。じゃ、とにかく気を付けて。特に井戸なんかは毒を投げ込まれると厄介だからさ、常に誰かに監視させていた方がいいよ」
「そんなんはガルダに人を出させればいいんだ。アイツの敵なんだからさ。ていうかノラ隊は今、この都市に揃ってるんだから大抵の相手にはどうにでもなるだろ?」
憤慨するルガムの言うことは冒険者としてはもっともなのだけど、大きな組織同士の揉め事はそう単純なものでもない。
結果として軍隊なんか出されるとやっていられないのである。
「うまい所に着地させて、やる気をなくさせるのが僕のとれる手段かな」
ロバートの脇を掻い潜ってジャンカを殺したところで話は解決しない。
今回は当然、ガルダの話も必要になるだろう。そうしてジャンカに納得か諦めを持って故郷に帰ってもらうのだ。
とはいえ、僕の家族に危害を加えると脅す男を殺したくないわけでもないので、何らかの避けえぬ事故が起こればそれも受け入れる。
迷宮は何があるかわからないのだ。
「死なないようにね」
ルガムはそういうと夕飯の残りと買い置きのパンを出してくれた。
「気をつけるよ」
手早く食事をとり、腹が満ちると眠気が迫ってくる。
水瓶から口をすすいでアクビを一つ。
「とりあえず足を洗ってくるけど、先に寝室へ行ってて。サミが泣いていたら大変だから」
ルガムに言って僕は玄関を開けた。
井戸まで行こうとして、目に入ってきた光景に驚く。
まさか、そこにカルコーマがまだいるとは。正確に言えば監視者への暴行がまだ続いているとは思いもしなかったのだ。
ルガムとはゆっくり話をしたし、食事もしたのだからそれなりの時間がたっているのは間違いない。
ベチン、ベチンと一定間隔で振り下ろされる手のひらは監視者の頬をすでに大きく腫らしている。
周囲の子供たちはさすがに飽きたのだろう、解散してその場には誰もいなかったのだけどカルコーマにとってこの行動は観客を必要としないらしい。
監視者の顔からは表情が消え、すでに涎と鼻水をたれ流すだけの生き物になってしまっていた。それでも気絶をしていないのは、カルコーマの精妙な力加減によるものだろう。
心を潰すという意味では有効そうだけれども、長時間平手を打ち続けるというのは打つ方の手の方も痛いのではないだろうか。それとも、分厚くて大きなカルコーマの手なら痛みなど感じないというのだろうか。いずれにせよ僕に出来る技術ではなさそうだ。
などとどうでもいいことを考えながら井戸端で足を洗い、顔も洗う。
さて、明日も迷宮だし早く寝よう。そういや、アルとサミをルガムに預けたらステアが自分の部屋に来いと言ってはいなかったか。
いや、もちろんやましい気持ちなんて……大いにある。
夫婦なんだから、やましくていいじゃないか。
ルガムとステアと僕の間で保たれている関係性を保つため、普段ははぐらかしているのだけれどもそういえば最近は女性の柔肌に触れていない。
ギーの肌には触れたばかりだけれど、鱗がかった肌が云々は別にして、そもそもそういう意味じゃない。本質的な欲求解消の話だ。
ルガムとの間にはサミがいることもあり、出産後なんとなくそういうことが避けられていた。と、いうよりも子供を生んだあとってどれくらいの時間をおけば夫婦の触れあいを再開していいのだろうか。しかし、世の中には年子も多いし、そういう意味ではもう大丈夫のはず。
ただ、まあ、うん。
不意に沸き上がった欲求が脳味噌の半分以上を支配した様な夜。
情動に身を任せてみても……。
「おい小僧、だらしなく笑ってんなよ」
カルコーマは監視者の頬を張りながら言った。
突然冷や水を浴びせられた様に脳内の欲求が吹き飛んでいく。
先ほどまで確かにあった楽しい予感は霧消し、泥臭い現実に引き戻された気分だ。
「さっき、ガキにガルダの旦那を呼びに行かせた。もう来るだろうからオマエも話を聴いとけ」
飽きもせず、執拗に振られる手が何百度目か、何千度目の平手打ちを叩き込む。
「あの、僕はもう寝たいんで話とかはそっちでやっといて貰っていいですか?」
「聴いとけ。元々は旦那の客だが、今はオマエの客だ」
有無をいわさぬ口調には逆らいがたい。
なにせ、向こうの方が僕より強いのだ。そのうえ内容が正論に寄っているとなお、反論しにくい。
僕はせめてもの反抗として黙ったまま薪割台として使われる切り株に腰を下ろした。
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