第355話 スナッチ

 家の中に入ると、食堂に据え付けられた赤ん坊用のベッドにサミを置く。

 とても立派で、家の大きさに合わないそれはご主人から送られた出産祝いだ。

 これのお陰で食堂は一気に狭くなったのだけど、とにかく気持ちは嬉しいし、なにより物はいいのだから捨てるのは忍びない。

 使わなくなれば売って現金に換えるつもりなので大事に使っていた。

 アルはおっかなびっくりサミの頬や髪に触れている。


「ちょっとアル、泣かさないでよ」


 濡れ布巾を用意しながらルガムは言う。

 オムツを換える際、赤ん坊が上機嫌か否かで難易度が激しく変動するのだ。

 アルは慌てて手を引っ込めると、おそるおそるサミの顔をのぞき込んだ。

 彼ら兄妹はじっと見つめ合うと、妹が突然うめきだして兄が笑った。

 

「かわいいね。大丈夫だよルガムさん、泣かしていないよ」


「はいはい、子守の上手なお兄ちゃんで私も嬉しいわ。さ、のいてちょうだい」


 固く絞った布巾を三枚と空の桶を持ったルガムがやってきて、アルは場所を譲った。

 ルガムは手際よくオムツを交換すると、汚れたオムツや布巾を桶に入れて僕に差し出す。僕はそれを受け取り、外へ。もちろん洗って干すためだ。

 アルはその場に残り、ルガムがサミに乳を飲ませるのを目を丸くして見ていた。


 ※


 井戸で汚れ物を洗い、干し終わる頃には日も傾き掛けていた。

 もう間もなく他の子供たちも戻ってくるだろう。そうすれば賑やかな夕飯だ。

 教会の方から火おこし特有の匂いが漂ってくる。

 ルガム邸と教会、それにガルダ商会の倉庫につとめている雑役夫たちの食事は教会があわせて調理する。それを条件にガルダは多額の現金を教会へ寄進していた。

 

「お、いた!」


 のんびりと匂いを嗅いでいた為、そいつの接近に気づくのが遅れた。

 厳つい顔をした用心棒の名前を思い出すよりも、そいつが僕を抱きしめる方が速かった。

 思考が追いつくよりも先に、ヒョイと持ち上げられ、あっという間に僕の愛しい家は遠ざかっていく。

 ものすごい力と速さで、もがこうとしてもびくともしない。

 その上、彼の手が服の上から僕の尻をがっしり掴んでおり、動く度に激痛が走る。


「ロ、ロバートさん放してください!」


 舌を噛みながら僕は言葉をひねり出す。

 男はアンドリューの相棒にして凄腕の用心棒、ロバートであった。

 体勢的に僕の視界からは彼の背中と尻、そして遠ざかっていく景色しか見えないのだけど間違いない。

 

「なあに、大丈夫だからちょっと待っていろ!」


 全く安心できない返答を一つ寄越すと、ロバートは道から外れる。

 草むらを飛び越え、藪を強引に突っ切り、道なき道を強引に走っていく。もちろんその都度、尻には激痛が走り、枝が体を打つ。

 魔法を叩き込もうにも集中が乱され上手く行かない。

 コルネリを呼ぶべきか。いや、この男ならコルネリを返り討ちにしかねない。

 僕は体を丸め、口をつぐんで成り行きを見守ることにした。

 アンドリューの記憶もあり、殺したくはないという気持ちもわずかにあった。

 やがて、藪を抜け、さらに進んでいく。

 まるで坂を転がる球体の様にまるで止まる気配はなく、それどころか勢いが増していくのだ。

 ようやく彼が止まったのは都市を出て、随分と離れてからだった。

 柔らかい草の上に解放されると、全身が痺れた僕の体は抵抗もできずに柔らかい草の上に転がった。

 さすがに汗をかいて息を乱したロバートは上着を脱ぎすて上半身を露わにする。

 まずい。なんだかわからないけどまずい。

 僕は頼りない手足に力を入れて逃げ道を探した。


「ああ、待て待て。もうここが目的地だから。ほら立てよ」


 見回すと、そこは背の低い草が繁る緩い丘陵だった。

 すぐ側におそらく貴族のものだろう別荘が一軒。

 僕はロバートが差し出した腕を避けて自分で立ち上がった。

 とにかく、都市は既に見えない。太陽は地平線に沈みつつある。間もなく夜が来る。

 

「一体、なんなんですか?」


 僕は魔力を練りながら問う。

 さすがにこれは攻撃を受けたととっても過言では無かろう。

 返答次第では覚悟を決めなければならない。

 しかし、ロバートは悪びれずに汗を拭うと呵々と笑う。

 

「仕事だよ。俺とおまえの仕事。なんてったか、そうだ教授騎士ってんだろ。強くなったじゃないかよ」


 全く話にならない。

 勝負は最初。僕は奇襲にもっとも向いた魔法を脳裏に探す。

 と、ロバートは屋敷に向かってスタスタと歩き出した。

 隙だらけの背中に、僕への害意はまったく読みとれない。

 いっそのこと清々しいほど邪悪であってくれれば楽なのに。

 僕は苛立ちながらも練りかけの魔力を放棄した。


 ※


 灰色の髪と灰色の光彩を持った褐色肌の青年はジャンカと名乗った。

 高価そうな服を着て、傍らには宝石で飾られた剣を持っている。

 

「いや、だから教授騎士に指導を受けたいのなら他を当たってください」


 意志の強そうな灰色の眼をまっすぐ向けられ、僕は顔をしかめた。

 そんなことのために楽しい夕飯を不意にされ、家族から無理矢理に引き離されたのか。

 

「金ならある。相場の倍出そう」


 ジャンカはそう言って譲らない。

 しかし、基本的に僕の仕事はブラントを経由することになっているのであって、隠れて依頼を受けていたらなにを言われるかわかったものではない。


「ジャンカさん、剣士なんでしょう。それなら僕みたいな魔法使いよりもロバートさんに習った方が絶対にいいですよ」


「あ、そりゃダメだ。何人か弟子をとったこともあるんだけどな、俺が教えると皆、自殺しちゃうんだ」


 ロバートは無邪気に笑った。

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