第332話 素直
どこからか薄青い液体が染み出て来て、サンサネラを浸した。
「ちょっと、大丈夫なんですか?」
反応はないが、液体に沈められれば苦しかろう。
しかし、マブシは「問題無い」とだけ言って歩き出した。
「私も出立の準備をしてくる。オマエはそこで待っていろ」
そうして振り返りもせずに部屋の奥へ消えていった。
取り残された僕は、手持ちぶさたと、妙な恐ろしさで落ち着かない。
容れ物の中ではサンサネラが静かに浮かんでいるのだけれど、口や鼻を覆う触手が気味悪かった。
よく見れば触手は血が吹きだしていた傷口にも蛭のように群がっており、裾から服の中にも侵入している。
どう見ても尋常の処置ではないのだけど、現状では最善だと信じるほかない。
動かないサンサネラをじっと見ていても仕方がないので床に座り、周囲を眺める。
床も壁も天井も、周囲におかれているほとんどのものは見慣れない素材で作られており、それが一体どういうものか見当もつかない。
金属に見える部分に手を触れても特有の冷たさはなく、木材を触っているような不思議な感触だった。
地下で置き去りにされたのは一号と出会った時以来だ。
あのときは遠くから聞こえるうなり声や物音にいちいち肝を潰して驚いていたが、まさかその後に彼女と子供を作る事になんて思いもしなかった。
一回も抱いていないのに。
脳裏に浮いた思考を慌てて払う。
まだ戦場病が脳を浸しているらしい。
落ち着いて考えろ。そう自分に言って聞かせると、そわそわし始めた股間もスッと落ち着いていく。
股間が力んでいると上手く動けない。それが原因で命を落とすというのはあまりにも情けないではないか。
しばらくどうでもいい事を考えていて、ふと気づく。
寒い。
いつの間にか周囲の温度が下がっており、腕には鳥肌が立っていた。
「さて、整った」
と、マブシが戻って来た。後ろには別に二人のムーランダーを連れている。
その二人がマブシとともに着いてくる帯同者だろうか。
一人は明らかに小柄で、僕と同じくらいの背丈に黒い目をしていた。
もう一人はマブシと同程度の体型をしており、目は若草の様な緑色をしていた。
「マブシさん、寒いんですけどなにかしましたか?」
もはや吐く息も白くなる程、空気が冷たくなっていた。
「フム、空調を動かしたのだ。スリーパーには低温がよいのだ。この中は今から二時間かけてマイナス四度まで冷える」
言葉の意味はわからないけど、今から更に寒くなるらしい事は解った。
「ちょっと待ってくださいよ」
まだマーロは戻って来ていない。回復魔法の使い手がこなければサンサネラを動かす事が出来ないのだ。
ムーランダーたちは自前の長毛がある為か平気そうにしているけど、僕はとても耐えられそうにない。
「大丈夫だ。人間はその程度の低温で凍死などしない。耐えていろ」
簡単に無茶を言う。
僕はローブの襟元を絞って寒さに耐えた。
と、緑眼のムーランダーがサンサネラの容れ物をのぞき込む。
「治療は順調だな。二十時間もあれば日常生活へ戻れるだろう」
示された長時間に辟易するべきか、回復魔法も使わず短期間に治療できる技術に驚くべきか。
悩んでいるうちに、コルネリからマーロが来た旨の知らせがあったので結論は出さなかった。
*
外に出ると外気の暖かさに涙が出る。
時間帯的には夜明け前の最も寒い時間なのだろうけど、それでもムーランダーの基地よりはずっと快適だった。
同時に飛び込んできたコルネリがみぞおちに当たり激しくむせる。
それでも取り落とさず抱きしめてやれた自分を誉めてやりたい。
コルネリはコルネリなりに不安や孤独と戦っていたのだ。
その気持ちが解けていくのを感じ、愛おしくなる。
背中を撫でてから、馬で駆け寄ってくるマーロに手を振った。
その背後には数騎の騎兵が続いている。
「アナンシさん、サンサネラは?」
息を切らしながら僕の前に降りたマーロは、僕の背後でマブシによって浮かされているサンサネラを険しい表情で見つめた。
静かに眠っているサンサネラは、体にまったく力が入っておらず、僕が見ても死んでいる様に見える。
「生きている。早く術士を呼べ」
自分たちの技術を疑われた事が心外だったのか、マブシはサンサネラを地面に置くと同胞を連れてやや距離を取った。
マーロが連れてきた王国軍兵士たちは強い警戒心を込めてムーランダーたちを睨んでいたのでそれに斟酌したのだろう。
「さあヒョークマン君、頼むよ」
マーロの後ろにいたヒョークマンに声を掛けると、僧侶らしい青年に命じてサンサネラに回復魔法を唱えさせた。
回復魔法はサンサネラの損傷を次々に修復していき、僧侶が三回目の魔法をかけ終わったとき、ようやくサンサネラの瞼が開く。
「ゲエッ!」
サンサネラは身を起こすと、盛大に嘔吐した。
薄青い液体が胃液と混ざりビチャビチャと飛び出る。
神経質そうな僧侶の青年は眉根を寄せたものの文句を言うこともなくヒョークマンの後ろに戻っていった。
「先生、勝ったんですってね。流石です」
ヒョークマンは馬から飛び降りると、馬にくくり着けた大剣を引き抜く。
「それで、その三匹は捕虜ですか。仲間が大勢殺されているんだ、処刑なら俺に任せてくれませんかね」
表情は相変わらず快活だけど、吐く息から獣臭が漂う。
見た目にはわかり辛い憎悪が腹の奥底で融解し噴出したかの様だった。
「いや、違う。そうだとしても処刑は君に任せない。悪いんだけど剣はしまってくれるかな?」
僕はゆっくりと、はっきりとヒョークマンに命じた。
ヒョークマンはペロリと舌を出すとおとなしく剣を鞘に納める。
「わかりました。じゃあ、俺たちは行きますね。夜の内に進んでアーミウスに浸透しますので。では先生、またお会いしましょう。お元気で」
それだけ言うと、馬に飛び乗りヒョークマン隊は慌ただしく去った。
ムーランダーが戦線を放棄した以上、人間離れした精鋭兵士たちが持つ黄金の価値が戻ってきたのだ。
彼らは手柄を競い、そうして大勢を殺すだろう。
ヒョークマン隊を見送った僕たちの足下ではサンサネラがまだむせていた。
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