第201話 パン屋
目を覚まして外に出ると日はすっかり傾いていて、間もなく夕闇が訪れるような時間帯だった。
とりあえず顔を洗うと、フラフラと都市の中心部に向かう。
朝から昼に掛けて出る屋台は引っ込んで、代わりに立ち飲み屋台などが準備を始めている。
空腹が僕を切なくさせ、小銭をじゃらつかせながら屋台を覗くのだけど、おいている料理は酒のつまみが主で腹を満たせそうなものは見当たらなかった。
花街の余波でいつもの酒場は騒がしいだろうし、どうしたものかと思案に暮れていると、不意に肩を叩かれた。
「大いなる主のお導きですね」
振り向けばそこにはステアが微笑んでいた。
低くなった太陽が照らすその顔はひどく美しい。
「やあ、ステア。どうしたの?」
「いえ、昨日からカルコーマさんが教会に滞在しているんですけど、食事をものすごく摂るんです。体が大きいんで仕方ないとは思うんですけど……」
ステアは困ったように笑う。
そういえば小雨が新しい下男だと紹介していたのを思い出す。あんな男がいれば誰も教会を訪ねては来ないのではないだろうかと思い少しおかしくなった。
まあ、大半はノラや小雨と迷宮に潜るのだろうから、実際には下働きなどせず、教会には戻ったときに寝に帰るだけなのだろうけど。
「私たちは週に一度、一週間分のパンを焼くんですけど、一昨日焼いたばかりなのにもうなくなっちゃって、それで今夜の分を慌てて買いに来たんです」
どういう力が働いたのかはわからないものの、あんな怪人が転がり込んでくるとは難儀な話しである。
だけど『荒野の家教会』には子供達を預かってもらっている恩も有るので知らんふりは出来ない。
「あの、荷物持ちくらいなら手伝うよ」
「まあ、ありがとうございます。ところで、そのコルネリちゃんでしたっけ。私に敵意を示しているようなんですけど、なにかしましたか?」
言われて見れば、僕の胸に張り付いたコルネリは首をぐるりと後ろに向けて牙を剥き出していた。
昨晩はコルネリが寝ていたし、ステアと対面するのは初めてだったはずだ。
「なんでだろう。ほら、コルネリ、彼女は敵じゃないからさ、落ち着いて」
言いながら頭を撫でると、渋々といった様子で牙を納めた。
ステアも不思議そうに首をかしげる。
ともかく、僕たちは気まずい雰囲気のまま歩き出した。
僕たちは手近で、もしかすると多少はオマケしてくれるかもしれないという理由でラタトル商会の店舗に向かった。
ご主人はパンを多めに焼き、売れ残った分はお屋敷の賄いに廻す男なので、夕方でもそれなりの数のパンを見込めるのも理由の一つだ。
扉を開けると、目論見どおり棚には十分な量のパンが並んでいる。
ステアが店員と値段の交渉をしているのを尻目に、僕もパンを一つ手に取った。
腹が減っているのだ。自分の分も確保しないといけない。
ポケットから小銭を取り出し……。
「お客さん、食い物屋に生き物を連れてきて貰っちゃ困るね」
その声は多分、コルネリの事を言っているのだろう。
しかし、声の調子はとがめ立てすると言うよりもふざけている感じだった。
僕は振り返り階段を降りてきた声の主を確認する。
「ガルダさん、もう戻って来たんですか?」
ガルダはニヤリと笑って頷いた。
彼が都市を出てまだ二、三日ほどしか経っていない。
「案外とあっさりカタがついたんでな。新婚旅行も切り上げてトンボがえりさ」
もともと彼は一時的に都市から出ただけで、遠くに行ったわけでもない。
近隣に隠れて周到に様子を窺っていたのだろう。
「そんなことよりお嬢ちゃん、そんなに食っちゃ、太っちまわねえか?」
ガルダは持ってきた袋にパンを詰めるステアを一瞥して、言った。
あまりガルダのことを好ましく思っていないらしいステアは表情をさっと変え、無表情のまま淡々と作業を続ける。
「『荒野の家教会』の夕飯なんですけど」
僕が間に入り答える。
ついでに、なぜ今更パンを買いに来たかを順を追って説明すると、ノラの新しい仲間に関する辺りでガルダは驚いた顔をした。
「おお、そうか。半分冗談だったんだが、腕利きが来たのか。そりゃよかった。まだノラには会ってないが、なんだよ。それならそうと言ってくれりゃいいのに」
そう言うとガルダは懐から膨らんだ財布を取り出し、ステアに渡す。
「迷惑を掛けるが、飯はたっぷり食わしてやってくれよ。足りなきゃまた取りにくりゃいい」
ステアは好意を持たない男からの施しに複雑な表情を浮かべ、曖昧に頷いた。
「ああ、それから先輩。ちょっと上まで付き合えよ」
ガルダが馴れ馴れしく僕の肩に腕を回す。
と、無言を通していたステアが口を開いた。
「その方は私のお手伝いで荷物持ちをしていただく約束をしています。残念ですがあなたと共には行けません」
その目は鋭くガルダを見据えている。
だけどガルダはへラッと笑い、店員に指示を出した。
「おい、倉庫を片付けている連中から何人か荷物持ちに着けてやれ。それから、明日の朝からお嬢ちゃんのところには毎日パンを運ぶんだ。払いは俺に回せ」
そう言うとガルダは強引に僕の手を引っ張った。
反論させる気もないらしく、それ以上ステアの方を見もしない。
悔しさに歪むステアを尻目に、僕は会長室へと連行されることになった。
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