第178話 魚油は燃えるか?

 マルカの言葉によると、ネルハに絡んで以来彼の運は下降線をたどり、何度も焼きを入れられているとの事だ。

 

「まったく、ハンクのジジイめ忌々しい」


 そう吐き捨てると、マルカは手下がどこからか持ってきたバケツを受け取り僕に向かってぶちまけた。

 強烈な腐臭が辺りに立ちこめ、僕は吐きそうになる。

 液体は目や鼻、口にも入るのだけどそれを拭う手は縛られていてどうにも出来ない。

 僕は粘土の高い液体が顔の上を滑り落ちるのをじっと待つしかなかった。

 その間に、液体の正体に気づく。灯火用の魚油である。

 やっと瞼を開ければマルカの勝ち誇った顔がそびえていた。


「俺様はな、マヌケじゃないんだよ。お前が魔法使いだってことはとっくに調査済みよ。火でも使ってみろよ、たちまちお前は火だるまだぜ」


 はあ、なるほど。

 つまりこの臭い油は僕への嫌がらせではなく火炎系の魔法を牽制するために用意した物だということだ。

 ヌルヌルと滑るのをこらえて必死に半身を起こす。

 それだけの動作にひどく疲れるのだけど、僕と対照的にマルカは上機嫌だ。

 激しい臭気が鼻につく。僕は山村育ちで魚油なんてほとんど触れた事がないのだけど、どうなのだろうか。これに火を付けて燃えるものか。

 いっそ状況も忘れ、都市で人を殺してはいけないという掟も捨て去って彼らに爆炎の一つも見舞ってやりたくなる程に魚油は不快だった。

 落ち着こうと深呼吸をすれば臭いが肺の奥まで入ってきて気持ち悪くなる。

 と、檻の向こうでマルカが棒を振り上げた。

 一呼吸おいてそれは僕の体に振り下ろされる。

 痛い。しかし、叩かれたのがウル師匠に貰ったローブの上だったのが幸いし、耐えられないほどではない。

 僕は大袈裟に痛がって見せ、マルカは調子に乗ったまま何度も棒を振り下ろしてきた。

 

「どうだ、俺の苦痛の億分の一でも思い知ったか!」


「勘弁してください、許してください!」


 僕は大声で許しを請う。

 人間は命乞いする相手に対し、攻撃を躊躇する者とカサに着る者がいる。

 どうやらマルカは後者の様で打撃は一層激しくなった。

 上手く背中や肩に棒を受けられればいいものの、油のせいで身動きもままならず十回に一回は頭に叩き付けられた。

 そのたび、目から火が出るような衝撃が襲う。

 

「待ってください、なんでもしますから許してください!」


 僕は無様に喚いた。

 マルカは叩きづらい体勢の打撃に疲れたのか手を止める。


「ふん、お前はここで死ぬんだ。散々痛めつけられたあとにな。まあいいや。ゆっくりやろうぜ。ああ臭え。お前みたいな奴隷の溝鼠にはいいだろうが、俺様のような色男にはツラい臭いだぜ。よし、ちょっと休憩してから続きだ。おい、俺は外の空気を吸って来るからお前はこいつを見張っていろよ」

   

 わざとらしく鼻を摘まむとマルカは手下に監視を命じて出て行った。

 大柄な男が僕を睥睨し立つ。

 今、この男を懐柔できれば逃げられるのではないだろうか。

 脳内でそんな事を考えていると、不意に音がした。


 カツン。


 頭の横に落ちてきたのは鳥の骨だった。

 監視の男も訝しんで周囲を見回すがなにもいない。

 しかし、男がこちらを見た瞬間、背後に積まれた木箱の上に立つ巨大なネズミがいた。

 真っ白な毛並みは間違いない。モモックだ。モモックはこちらに向かって手を振っている。

 

『眠れ』


 僕は魔法を唱え、監視の男を気絶させた。


「よい、アイヤン。ひさしぶりやばってんがなんばしようとね? アレやったら助けようか?」


 モモックは相変わらずの可愛らしい声をたてる。


「頼むよモモック!」


 監視している男は僅かな時間で意思を取り戻すだろうし、そうなればマルカを呼ぶ。

 状況は好転していないが、それでもモモックを見て元気が出た。

 モモックは木箱の上からスルスルと降りると、人間なら子供でも通り抜けられないような幅の鉄柵を何事もなく通り抜け僕の前に立った。


「そん男、殺してよかったら今オイがやっちゃろうか?」


 モモックはポケットから石玉をじゃらじゃらと取り出した。

 

「いや、いいよ。とにかく鎖さえ千切ってくれれば」


 いいながら、僕は男がいつ覚醒するかでヒヤヒヤしていた。魔法による気絶は短くて三十秒ほど、長くても二分で効果が切れる。そう考えればそろそろ目を覚ましてもおかしくはない。

 そうこうするうちにモモックの自慢の前歯が鎖を千切り、手足が自由になる。

 しかし、依然として檻の中である。

 逃げ道を確保せねば。男が檻の鍵を持っているだろうか。

 

「ほら、アイヤン逃ぐっとやろもん。行くばい」


 逡巡する僕をよそに、モモックは壁に取り付いて掘り出した。


「こがん薄か土壁、なんちゃなかよ」


 あっと言う間にモモックは壁に小さな穴を空ける。

 僕もどうにか通れそうな広さに穴を押し広げると、そのまま先に出ていった。

 監視役の男はまだ意識が戻らないようで、僕は急いで穴に頭を入れた。

 いずれにせよ、あの男は間もなく目を覚ます。

 それでも、とにかく逃げ仰せたのだ。

僕は倉庫裏手の、歩くのも困難な細い路地を走った。

 ほんの一瞬、火を着けて去ろうかとも思ったものの、欲求をどうにか抑え込む。

 延焼すれば関係無い人にまで迷惑を掛けてしまう。それは不本意だった。



「いやあ、よかったばい。オイがあのへんの倉庫、ねぐらにしちょったけんアンタ助かったとばい」


 モモックは僕の背中に飛び乗ったまま、もう何度目かの同じ話を繰り返している。

 どうも、彼にとって花街は住み心地がよかったらしく、あの辺りの倉庫を転々として、腹が空けば花街に忍び込んでいたらしい。

 おかげで彼は随分と重くなっている。

 

「いや、本当に助かったよ。ありがとう。それでさ、悪いんだけど降りて自分で歩いて貰えないかな」


 路地を抜けて、モモックの指示に従い別の路地に入る。そうして追っ手をまいているわけだけど、すでに僕の体力は限界に来ていた。

 

「アイヤンにとってオイは命の恩人ばい? ちょこっとおぶったっちゃ罰は当たらんめえが。ほら、シャンシャン走りないや。次を右ばい」


 彼は僕の頭をペチペチと叩きながら指示を出した。

 これは、一生言われ続けるのではなかろうか。

 帰ったらギーにグリレシアの寿命を確認しなければいけない。

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