第176話 暗夜逡巡
従業員はすぐに水を張ったタライと手ぬぐいを持ってきてくれた。
その間に後陣もぞろぞろと這い出してきて最後のビーゴで全員が出そろう。
僕以外の連中は見慣れない場所を落ち着き無くと見回すのだけど、無理もない。
こんな場所、滅多に来ないどころか普通の冒険者は存在も知らないのだから。
宿の従業員は僕からの説明を聞くと、すぐに暖炉の中の扉に鍵と太い閂を掛けた。
ブラント邸の隠し通路入り口は見つけづらいものだが、そこから賊が侵入し、途中の仕掛けも突破してここまでたどり着く可能性もないわけではない。
僕たちのような小物をワザワザ追って来る者はいないと思うのだけど、人を狂わせる大金が喧伝されていて、踊らされる者は何をやらかすかわかったものではない。万が一の場合もこれでいくらか気休めにはなるだろう。
僕たちは服に付いた汚れを可能な限り落とし、顔や手を綺麗にして人心地付いた。
さて、ここからが重要だ。
彼らをどこへ逃がすべきか。
この宿屋でも大丈夫な気はするものの、通路の先がここなのだ。
もし誰かが追ってくると出た先に僕たちが屯しているのは非常にまずい。
などと考えていると、従業員の男が口を開いた。
「差し出がましいようですが、たとえば彼女一人であれば責任を持ってお預かり出来ますよ」
その手が指すのは女魔法使いのラトゥリであった。
「メイド用の服がありますので、それを着ていれば追っ手がかかってもごまかせるかと思います」
確かに、ラトゥリは良くも悪くも冒険者には見えないので何者かがブラントの弟子を追ってきたとして、すこし変装した彼女の前は素通りする可能性が高い。
同じ女性でも前衛のマーロファムは立派な体型をしているのでこの手は使えないだろう。
「それじゃあ彼女のことをお願いします」
ぞろぞろ歩けば目立つ。隠すにしても小分けにしてしまえば探す方も手間だろう。
とりあえずここで一人だ。
「それからラトゥリ、申し訳ないんだけど僕たちが汚した分は掃除しておいてね」
舞い上がったススやドロドロの靴、それに顔を洗った際の飛び跳ねた水で周囲は酷く汚れていた。
ラトゥリは嫌そうな顔をしたのだけど見ない振りでごまかした。
「あの、お掃除が終われば自宅には戻っていいんでしょうか?」
ラトゥリから言われて、僕は一瞬呆けてしまった。
自宅。
その存在が僕の頭から抜け落ちていた。
彼らは都市育ちの自由市民ではないか。
当然家族がいて、ブラント邸に入所するまでは一緒に住んでいた筈だ。
だけど、僕の脳裏には不安が浮かぶ。
仮に、ブラントへの脅迫、あるいは嫌がらせを僕がするのなら、やはり教え子を狙う。
そうなると、おそらく内通者から名簿を入手できる教え子の実家が安全とは言い難いのではないだろうか。
結局、もっとも安全なのは相手に居場所を知られないことだ。
その点でこの宿屋は有力な隠れ家の一つである。
そもそもブラントが何者にも負けなければ、あるいは地下の秘密通路が見つからなければ、秘密通路内の仕掛けに気づかれなければ誰もここにはやって来ないのだ。僕は内心であまり好ましくないブラントの健闘と敵の間抜けを祈る。
「駄目だね。僕かブラントさんが呼びに来るまでここにいてよ」
僕が言うと、宿の従業員が穏やかに頷いてくれた。
彼は信頼出来そうだ。
※
宿屋を出て、払暁の闇に息を殺して歩く。
人数は僕を合わせて三人になっていた。
ベリコガは宿から近く、常夜営業をしているいつもの酒場に戦士のビルを連れて向かった。
店主にブラントの名前を出し、二階の事務室内で匿って貰うよう指示をしている。
そうして僕はこの段階でもどこへ向かうか決めかねていた。
ルガムの家と『荒野の家教会』は方角が一緒なのだけど、どちらを目指すかそろそろ決めなければいけない。
安全度で言えば小雨も戻っているという『荒野の家』なのだろうけど、男性は受け入れられない。さらにいえば責任者の老婆が僕のことを嫌っているのでマーロだけでも受け入れてくれるか疑問が付きまとう。
対するルガムの家は、人目に付きにくいし間違いなく三人とも匿ってくれるだろうけど、ただの民家に過ぎない。ルガム自身とマーロ、それにビーゴと僕の戦力で襲撃に対処する必要が出てくるし、子供達も巻き込む事になる。
いっそのことブラントにより兵士が配備されているというご主人のお屋敷に逃げ込むか。
そんな考えが頭をもたげ、僕は慌ててそれを踏みつぶした。
ガルダと関係が深い場所から人が詰めかけるのだとすればお屋敷は既に暴徒が詰め寄せている可能性が高い。
しかし、最後にガルダが目撃されたのはブラント邸なのだ。
だからブラント邸には暴徒の他に腕利きの監視も付いている。
エランジェスの組織も今後の事を考えれば商店会連合の構成員に直接害をなすのは望まない筈だ。
だとすればやはりやってくるのは賞金につられた暴徒だけだろうから、そこに僕たちが出向いて刺激を与えるのは避けたかった。
十分な数の兵士たちがいるということは、お屋敷は安全であろう。
いまの僕にはそう信じる以外ない。
日が昇るその直前、一日でもっとも深い暗闇の中を僕たちは音も出さずに進んだ。
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