第161話 奴隷少女
ネルハは思う。
自分はわがままなのだろうかと。
エランジェスに売られたときには体を売らない事への反動は自分の身に暴力として降りかかるだけであった。
でも、今ではそれが周囲の人を巻き込んで迷惑をかけているのだ。
あの頼りない少年にしか見えない新しい主人は、それでゴロツキに責められていると聞くし、主人の妻だというルガムも冒険に出られない事で収入を絶たれ、家計のやりくりに苦しんでいる。
もっとも、ルガムはネルハに対して子供の世話や家事をしてくれるので助かると言ってくれるし、子供たちも懐いてくれる。
それでも、本来は自分がすんなりと体を売ればいろんな事がうまく行くはずだ。
キュードファミリーにいくらか納めて道に立ち、客を取って売り上げを主人に渡す。
そうすればルガムたちも気兼ねなく冒険に励み、貧しくなった食卓の内容も改善されるだろう。
主人の債権返還だってはかどるはずだ。
だとしても、体は売れない。
ネルハもそれだけは譲ることが出来なかった。
理由なんて大したものではない。
ただ、自分で決めただけだ。
どうせ奴隷に落ちたような身の上、もはや幸福など望むべくもなく死さえも身近である。
ならば、体を売ることにだけはそれこそ命を懸けてあらがおうと。
一種の願掛けである。
ネルハはそのおかげで絶望に陥らずに生きてこれた。
同時に捕まったり、売られたりした同年代の少女たちの何割かが自ら命を絶つのを横目に見ながら、その後に続かずにすんでいる。
なので、自分に売春を強要しない今の主人には申し訳なく思いつつも、その方針がありがたかった。
ネルハが家の庭で洗濯物を干していると、二人組の来客があった。
一人は赤い髪をした小柄な男で、もう一人は黒髪を後ろに束ねた東洋人の大柄な男だった。
その、異様な雰囲気にエランジェスの存在が脳裏を掠める。
逃げるべきか。
いや、でも家の中にはルガムと三人の子供たちがいる。
逡巡するネルハに、小柄な男が手を振った。
「俺たちはルガムのお姉ちゃんの知り合いなんだけどさ、いる?」
陽気な物言いと人なつっこい笑み。
「奥様でしたら御在宅ですが、どのようなご用件でしょうか?」
簡単には信用できない。
ネルハは手に持った洗濯物を強く握る。
いざとなったらこれを投げつけて逃げなければいけない。
「いや、呼んでくれたら……ていうかアンタがネルハだろ。ううむ」
そう言うと男は渋い顔でネルハを上から下まで何度も目を往復させながらねめつける。
ネルハはその視線に耐えられなくなり思わず身をよじった。
「なんですか。私に用ですか?」
しかし、男はネルハに答えず、振り返って連れの男に話しかけた。
「なあ、イマイチだぜ。見ようによっちゃ悪くないし、化粧をすりゃ栄えるのか知らんけど、やる気出ねえよ」
「知らん」
話しかけられた男がばっさりと切り捨てる。
ネルハにとっては、外見をバカにされた事だけが確実な事実である。
いくら不自由な奴隷だとはいえ、通りすがりの人にまでバカにされるいわれは無いはずだ。
表情にこそ出さないものの、ネルハの心証は大いに害された。
「とにかくガルダとノラが手みやげを持って遊びに来たって伝えてくれりゃいいから」
小柄な男が言うのだけど、二人とも手ぶらで何か荷物を持っている様子はない。
それでもあまり関わり合いたくない。
ネルハは洗濯物を籠にしまうと、ルガムを呼びに行った。
※
ルガムが家の中に通すように言うので、ネルハは二人を案内し、洗濯作業に戻った。
濡れた洗濯物をひもに掛けながら、頭の中をいくつもの推測が巡る。
一体、何の話なのだろうか。
先ほどの態度から、話題はネルハの事についてで間違いないだろう。
二人とも、どう見ても堅気の人間には見えなかった。
女衒だろうか。
あの優しそうな少年が持て余した自分を女衒に叩き売ったとしても責めることは出来ない。
自分はまごう事なき厄介者であり、彼らには多大な迷惑をかけているのは事実だから。
だとしたら自らに課した命題により、逃げなければならない。
それは今なのだろうか。
周囲を見回しても付近には誰もいない。
奴隷管理局の捜索は徹底していて、その後の責め苦は苛烈だと言うけれど、死ぬよりはマシだ。それに、もしかしたらうまく逃げ延びることも出来るかもしれない。
だけど、あの少年は手を握って自分を守ると約束してはくれなかったか。
手のひらの温もりを思い出して逡巡する。
彼を信じるべきか否か。
結局、ネルハはその問いに答えを出せなかった。
そのうちに家の扉が開き、件の二人組とルガムが出てくる。
「つうわけで、ネルハ。出かけるぞ」
小柄な男が言った。
やはり女衒なのだろうか。
主人を信じたのは失敗だったらしい。
自殺の手順など考えながら呆然としていると、男がネルハを急かす。
「ほら、急げよ。教会が閉まっちまうだろ」
教会?
花街の間違いではないのか。
「ロームの婆さんも流石に俺一人で行ったんじゃダメだと言うもんでな。花嫁を連れて来いってウルサいんだ」
花嫁とは誰の事だろうか。
主人の妻ならルガムではないのだろうか。
「あの、ひょっとして私が結婚するのですか?」
ネルハはそれだけを口に出すので精一杯だった。
「ああ、そうだよ。それで花婿が俺。なに、ほんの形だけの夫婦だ。夫婦証明書さえ出して貰えて、お披露目が済めば二度と会わなくてもいいんだから気楽なもんだろ」
小柄な男はどこまでも人なつっこい笑みを浮かべていた。
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