第150話 殺意
「だいたいさあ、アイツは頭がおかしいんだよねえ。よっぽど殺してやろうかと思ったんだけどなあ」
魔法使いは運ばれてきた酒を口に運びながら呟いた。
僕の傷はまだ塞がらないのだけどあまり気にしていないようだ。
「常識ってもんがないんだよねえ。僕も相棒に止められてなかったらカリカリにしてやるのに。あ、髪の毛はもうチリチリか!」
危険な男への悪口を言って笑う。
その行為がそもそも危険であって、周囲の女の子たちは眉をひそめた。
どうもこの魔法使いはエランジェスの事が耐えられないほど嫌いなようで、止めどなく悪口が出てくる。
これは同族嫌悪というものなのだろうか。
僕から見れば二人とも立場以外には差がないように見える。
キィ、と声がして気がつくと、コウモリが僕の体をよじ登っていた。
ちょうど女の子たちが席を離れている時でよかった。
コウモリは僕の胸から首、顔を這って額にたどり着いた。
ペロっと僕の傷口をなめ出す。
「あれ、食べられてるじゃない。助けてあげようか?」
酒が入って上機嫌な魔法使いの物騒な提案を丁重に断り、僕はコウモリを撫でた。
先ほどはとっさの事とはいえ、かなり強く握ってしまったのだ。
にもかかわらず、途中から僕の意図を理解したかのようにおとなしくなった。そうでなければ振り払われていたはずだ。
だからそれが食事であろうとどうだろうと流れ出る血くらい好きなだけなめさせてあげたい気持ちだった。
「ばっちいよ。僕なら絶対に無理だなー」
魔法使いが大げさに顔を歪めた。
「ところで、さっきのがエランジェスさんなんですか?」
鼻血が止まらないので上を向き、喉に流れ込む血にむせそうになるのだけど、必要なことは確認しておかないといけない。
痛む胸を押さえて深呼吸を一つ。それで思考にかかった霞を出来るだけ吹き飛ばしたかった。
「そうだよお。あれ、知っていて耐えてたんじゃないんだねえ」
魔法使いが意外そうな声をあげた。
耐える以外にどういう対応があるのかと言いたかった。
だけどこの魔法使いには様々な対応法があるのだろう。
僕のような都市に縛られた奴隷ではない。
流れ者で腕利きのこの男は好きにやって、問題があれば他に流れていけばいいのだ。
「ここに来る前は邪教徒の用心棒をしていたんだけど、あれはひどかったな」
不意に魔法使いは忌々しげな口調で言った。
同時に僕も胸がドキリと痛む。
この他人への興味が薄そうな男はすっかり忘れているのだけど、僕はそのときにこの男を見ているのだ。
そして、その事件そのものが僕の心にしこりとなってわだかまってもいる。
「なんだろうな。いくらでも女を抱けるって聞いたからさ、あんな胡散臭い連中について行ったのにそんなことは全然なかったね。何人か口説いてみたけどむしろ身持ちが堅いの。アレならこの辺で声かけながら歩いた方がまだ釣れるよ」
邪教徒と呼ばれた『恵みの果実教会』について僕が事前に聞かされていたことは悪魔崇拝を旨とする集団で、儀式として集団での交合や生け贄の儀式を執り行うと言うことだった。
僕が彼らと過ごした時間は少ないのだけど、それが本当かどうかについて真相は解らないままだ。でも、流石にあの追いつめられた状況ではそういう気分にならないのではないだろうか。
いや、むしろ恐怖から逃げるためにそうしなかったことこそが真実を物語っているような気もする。
「でも相棒がねえ、割がいいからって引き受けちゃってさあ。つまんなかったね。あ、でもなんて言ったっけな。スゴい美人がいたよ」
テリオフレフ。
その名前が脳裏に浮かぶ。
同時に胸が締め付けられる。
「それが自殺しちゃうんだから本当にもったいないよねえ。どうせ死ぬんなら無理矢理でもヤっとけばよかった。主義じゃないんだけどね」
殺してやる!
冗談めかしたその言葉に、僕の奥歯はガチガチと鳴り、全身の筋肉が震えた。
ウル師匠に暴力だけを追うなと諭されたのだけど、今この瞬間、目の前の邪悪な男を殴り倒す以上に重要なことがあるのだろうか。
ダメだ。落ち着け。
自らに言い聞かせる。
どうせ殴りかかることなどできない小心者なのだ。
力も足りない。そして後のことを無視したりも出来ない。
結局、魔法使いは押し黙ってしまった僕に興味をなくしたのか、それとも性欲をもよおしたのか。
女を抱けるという上階の個室に行ってしまった。
屈辱と痛みのなかで残された僕にとって、額に張り付くコウモリの高い体温だけが慰めになった。
桶の水を換えて来た女の子が僕の顔に張り付くコウモリを見て水をぶちまけてしまったことについては少しだけ申し訳なかった。
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