第149話 暴君
頬を張られたので、わざと倒れこむ。
出来るだけ哀れで惨めったらしい目線でやめてくれ、と訴える。
相手を屈服させて満足する手合いならこれでいいはずだ。
しかし効果はないらしく、次の蹴りが飛んできただけだった。
攻撃そのものは大した事はない。
力もそれほどではないし対象を効率的に壊す小雨のような技術も込められてはいない。
だけど、それを受けるのは僕だ。
並外れてひ弱な僕が喧嘩慣れしたゴロツキの暴行に長くは耐えられない。
現に殴られたところがズキズキと痛んでいる。
殺すか。
魔法で一撃。それで終わりだ。
獰猛な感情が首をもたげる。
いや、ダメだ。
目の前の男を一人殺したって何にもならない。
周りを囲む取り巻きに僕も殺されてしまう。
奇跡的にうまく行き、彼らも全員を打ち倒したとしてどうする。その次には先ほどの用心棒と戦わなければいけない。
それもやり過ごしたとして、官憲の調べは……。
奴隷の僕が有力商人とその一党を死傷したとなれば行き着く先は結局身の破滅である。
この男が僕を本気で殺す気であるのなら殺してでも逃げないといけないのだけど、そうでなければとにかく我慢してやり過ごすのが一番だ。
そうして暴行を受け続けて気づいたのだけど、この男は僕を殺す気も殺さない気もなさそうだった。
というよりも深く考えていない。
腹が立ったからそのストレスの発露として手足を振り回しているだけだ。
そうなるとこちらもとるべき行動は決まってくる。
背中を丸め、頭を守り、そしてコウモリを決して手放さない。
やがて、長い時間のように感じる短い時間が過ぎ、最後に一撃、腹を蹴り上げるとエランジェスは僕から離れた。
反吐がこみ上げ、路上に血の混じった吐瀉物をぶちまける。
涙目を拭い見上げると、エランジェスは満足そうに笑い額の汗を拭っていた。
エランジェスが周囲を見回すと、通行人も取り巻きたちでさえ視線を伏せる。
きっとこうやって接するのが、正解なのだ。
知らなかったとはいえ、危険人物をマジマジと見てしまった僕の失敗である。
痛みにゼエゼエと熱い息を吐きながら、僕は力なく地面に転がる。
「オラ、今度から気をつけろよ、バカ野郎!」
エランジェスが僕に投げかける言葉には裏腹に歓喜の色が混じっていた。
これ以上因縁を付けられては堪らない。
僕はどうにか立ち上がり、観衆に近づいた。一刻も早く人の群に溶けてしまいたかった。
だけど僕が近づくと、観衆たちは避けるようにして周囲が開く。
今この瞬間、僕は腫れ物として認識されているのだろう。
それならそれで早くエランジェスから距離をとりたい。
額から吹き出す血も、止まりそうにない鼻血も、火がついたように熱いわき腹も、息をする度に裂かれるような痛みが走る胸も全部無視して歩みを進める。
振り返るのも恐ろしかった。
エランジェスの目は、迷宮で遭遇した冒険者のなれの果てと同じだった。
迷宮にとらわれ、人間性を喪失するのがなれの果てなのだとすれば、はじめから喪失しているのがあの男だ。
ああいう男と次に向き合うときは前衛を用意して、万全に戦える準備を整えていなければならない。
出来れば迷宮に引き込んで。
そうでなければこの都市内でも第三者から見て正当な戦う理由をこさえないと話にならないのだ。
痛む体を無理に動かしつつ、足を進めると人垣が割れ、ローブの怪人が僕を待ち受けていた。
「やあ、終わったねえ。じゃあ行こうか」
同じく人間性をどこかに落としてきたであろう魔法使いは、淡々と告げた。
※
おそらく高級なのだろう店では、複数の美女が客の隣に座りお酌をするサービスがあるらしい。
静かな音楽が流れる薄暗い店内では密やかな睦言が繰り返されているのだけど、僕たちが座った席では女の子たちが入れ替わりで濡らした布やバケツを持ってきてくれたり、包帯を巻いたりしてくれていて騒がしかった。
額の傷口に布を押し当てるのだけど血は一向に止まる様子もなく、鼻につっこんだ布もすぐ血が滴ってくる。
「だいたいでいいよ。お酒を持ってきて」
魔法使いがしゃあしゃあと言って目の前の女の子の尻を撫でた。
止血をしてくれている女の子は一瞬、なにか言いたそうな目で魔法使いを睨んだのだけど言葉を飲み込んで僕の治療に戻った。
「ごめんなさい」
僕は彼女に詫びた。
血のせいで彼女の華美な服は汚れていた。
弁償を求められたらどうしようと考えてドキドキする。
体中が痛い。
こんな表面的な対症療法ではなくて回復魔法で一気に治して欲しい。
早く切り上げて家に戻りたいのだけど、魔法使いはそう簡単に解放してはくれなさそうだった。
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