第134話 ご主人Ⅱ
ガルダは階段を上がるとノックもせずに扉を開けた。
「ちょっと椅子を借りるぜ」
ご主人が目を丸くしてこちらを見ているので僕も軽く会釈をしてガルダに続く。
ガルダが応接用のソファに腰掛け、僕もその向かいに座った。
「なんだ、何かあったのか?」
ご主人が手にした帳簿を机に置き、ガルダに尋ねる。
「なにってことはないんだけどよ、アンタの奴隷が悩んでいるらしいから相談に乗ってやるのさ。アンタも聞いてやってくれよ」
そもそも僕はご主人に相談に来たのだけど、ガルダの言いぶりだとまるでご主人がついでのようだ。
「すみません。お仕事中に失礼します」
もはや儀礼もなにもかもが水をかけられたように湿気った場でも、僕は恭しくご主人に頭を下げる。
慇懃な態度をとるだけなら無料だ。
少なくとも傍若無人な態度をとるよりはあらゆる場面で安く済む。
「実は、冒険者組合から債権奴隷をいただきまして」
僕はどれくらいまでならニエレクを悪くいっていいか、判断を付けかねていた。
立場のある人間を下手にこき下ろすとご主人と親しい場合にいたたまれなくなる。
しかし、聖人君子のように持ち上げてはそもそも話ができない。
「額面は金貨三百枚、性別は女性です」
それを聞いてご主人は顎に手を当てて考え込んだ。
「奴隷が奴隷の主になれるのか? そもそもおまえの財産はすべて俺のもののはずだから……ん、一体どうなるんだ?」
険しい顔でご主人がつぶやく。
僕は債権奴隷なので彼の言うとおり、財産権を差し押さえられている。
換金可能なすべての財産は現金化して債権の返済に充てるのが原則であり、例外は最低限の生活費や仕事で必要な経費分のみと規定されている。
原則論によれば僕はネルハを即時売り払って売り上げを返済金として納付しなければいけない。
「でも、僕の奴隷から僕に債権の返済があった場合、それは僕の返済金に使われるので、結局はご主人のものになりますね」
さらに言えば、ほとんど値が付かない売却よりは保有の方が有利な気がする。
「じゃあなんだ。その奴隷は娼館にでも勤めさせるのか?」
ご主人は渋い顔で聞いた。
貴族を妻に貰うような男だ。もしかすると売春に関わり家名を汚すことに忌避感があるのかもしれない。
「いえ、それは本人が絶対に嫌だと言っていますので無理強いはしないつもりです」
ご主人はうなずき、机の引き出しから何かの資料を取り出した。
「俺の屋敷で下働きでもさせるか? 早朝から深夜まで、毎日働けば月に金貨七枚を給金として払おう」
僕は少しだけ救われた気がした。
この都市では技能のない奴隷、それも非力な女奴隷が性奉仕以外の仕事で金を稼ぐのは難しい。
そういった奴隷がお屋敷で下働きをするとき、相場は日給銀貨二枚程度。休みなく毎日働いても月給に換算すれば金貨六枚にしかならない。
金貨一枚分だけとはいえ色を付けてくれている。
ただし、債権額が金貨三百枚であるのでその給金では利子すら払えない。
利子が膨れ続けるということは奴隷管理局の目に留まる可能性も高くなり、それはやはり暗い未来につながる。
「それじゃあ冒険者しかないんじゃないか?」
横からガルダが口を挟んだ。
悩む余地はないだろう、と暗に突きつけているようだった。
「しかしな、それですぐ死ぬくらいなら他の仕事をさせていた方が得だぞ。最近は新人の死亡率が上昇しているらしいじゃないか」
ご主人が不満げに言う。
超長期の視点を持てば仕事を続けるうちに熟練していくので、職種によっては給金の上昇が期待できる。
そうすればリスクを採らずともいずれ利息分くらいは払えるようになるかもしれない。
「そうでなくても最近は人手不足だと言う。防具職人の助手なんか月当たり金貨二十枚だと言うぞ。女で都市戸籍がなくて、債権奴隷だとしても半分の金貨十枚以上はもらえるだろう」
僕たちのような立場のものはそれだけで不当に賃金を安く削られる。
ご主人が言うように給金十枚はその中では異例だが、それでもどうにもならないのだ。
「ところで、さっき話したエランジェスって言うのは女衒の元締めのことだろ?」
ガルダの問いに、ご主人の表情が凍り付いた。
「……なんだおまえ、そんな奴と関わりを持ったのか?」
心底不快そうなご主人の声は、腹の奥から絞り出される様だった。
「いえ、ただ冒険者組合から下賜された奴隷の前の所有者がその人だったようです」
ご主人は渋い表情を浮かべて床に目を落とした。
「なにも揉める様なことはしていないか?」
不機嫌そうにご主人が聞いた。
揉めるもなにも僕はエランジェスという人に会ったこともなければ娼館に立ち入ったこともない。
僕は全く持って清い、人畜無害の存在なのだ。
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