第135話 悪Ⅱ
「ご主人はエランジェスさんという方をご存じなんですか?」
「知り合いというほどではない。あの男は実業家だが、商店会に非加入なんだ。その上、社交の場にも滅多に出てこない。ただ、小規模ながら貿易にも手を出している関係で話したことくらいはある。気味の悪い男だよ」
ご主人は手に持っていた冊子を机に置いた。
「これは先に言っておくが、エランジェスなんかと揉めるんじゃないぞ。俺は尻拭いなんてしないからな」
ご主人の言葉を受けてガルダが笑った。
「おいオッサン、アンタだっていっぱしの商会長様なんだろ。情けないことを言うなよ」
「しかし、あの連中は大勢無法者を抱えている。もし喧嘩にでもなったらと思うと……」
「その時はその時さ」
ガルダの無遠慮な一言にご主人はムッとして顔をしかめる。
「俺には女房子供もいる。守るべき財産もあるんだ。流れ者のお前たちとは違うんだぞ」
僕は自分の意志とは関係なしにこの都市に連れて来られたのであって、流れてきたわけではないのだけど。
「ご主人、落ち着いてください。僕の奴隷だって売却された品を正式に授受されたものらしいので、揉める理由がありませんよ」
現状ではエランジェスと薄いつながりを持っただけで、これで揉めるのならエランジェスは都市のほとんど全ての人間と揉めなければいけなくなる。
「そうだぜ、オッサン。大体、俺たちよりアンタの方がエランジェスと揉める事だってあるだろう。その時だって俺たちは知らん顔なんてする薄情者じゃないぜ。率先してどこにでも殴り込んでやるよ、なあ先輩」
いかにも頼もしくガルダは約束するが、そこに僕を巻き込まれても困る。
僕はどう返事をするべきかわからずに黙っていた。
「オッサンご自慢の奴隷は今や有名なシガーフル隊のメンバーだ。なかなか強力なメンツに加えてちょっとアレなかわいいお嬢ちゃんの後ろには危ない教会もついている。俺にだって動かせる人間はそれなりにいるんだぜ。正面から殴り合ってもそう簡単には負けないから安心しろよ」
ガルダの言葉はご主人を安心させたかったのだろうけど、今回に限っては効果が薄かったようだ。
ご主人の目つきが厄介者を見つめるように変化した。
「野蛮人どもめ、ここは迷宮じゃないんだ。無節操に暴力を振るえば領主府に睨まれるに決まっているだろ。そうなれば俺は財産の没収、商売の停止。つまり身の破滅だ。喧嘩で勝つとか負けるとか、俺の下にいる限りはそういう思考はやめて貰おう」
ご主人は不機嫌になって言ったのだけど、 ガルダと僕を一緒にしてほしくはない。
暴力は僕も嫌いだ。
「眠たい事を言うなよオッサン」
ガルダが妙な笑みを浮かべる。
ご馳走にありついた猛獣のような凄みのある表情。なるほど、このような顔を作れるものは野蛮人だろう。
近くに座っているだけで背筋が寒くなる。
「喧嘩を避けたいというのはまっとうな話だが、喧嘩の事を考えたくもないというのはボンクラの戯言だぜ。向こうが気まぐれに拳を振り上げたら、アンタはすぐにバンザイするのかい?」
ガルダのあざけるような言葉を、ご主人は不満げな目つきで聞いていた。
「なにも喧嘩をしろとけしかけているんじゃないぜ。アンタの言うとおり、確かに俺たちはゴロツキのあつまりじゃない。ただし、絡んでくるような輩は問答無用で殺すくらいじゃないとナメられるっていうありがたい助言だ。俺の生まれたあたりじゃ聖書にもそう書いてあった」
血の気の多い聖書もあったものだ、とは思うのだけど、本物の聖書も読んだことがないので案外とそれが普通なのかもしれない。
しかし、ご主人は当然納得が行かず、大きく息を吐いた。
「……絶対にこちらから喧嘩を売るなよ。エランジェスだけじゃない、この都市の誰が相手でもだ」
一介の奴隷に過ぎない僕が他者に喧嘩を売ったりする訳がないじゃないか。
しかし、ガルダはただ笑うばかりで明確に否定も肯定もしなかった。
「とにかくさ、オッサン。アンタもこれから貿易商として都市経済の中心に居座ろうって言うんだろ。それならアンタに噛みつこうっていう敵も、うまい汁をすすろうとする悪党も増える。悪いことは言わねえからさ、役人と兵士だけは飼い慣らしておけよ。そうすりゃ、他の汚い事は俺と先輩で請け負ってやるからさ」
ガルダは大きな音を立てて足を応接テーブルに投げ出した。
ご主人に食いつく悪党、という意味では真っ先に噛みついたのがこの男のような気がしてきた。
いや、それよりも……。
「ちょっと、ガルダさん。僕に腕力を期待しないでくださいよ!」
僕は思わず抗議の声を上げる。
取っ組み合いならそこらの子供相手にも負ける僕が荒事の場に馴染むはずがない。
「寂しいこと言うなよ先輩。一緒に冒険した仲だろう」
確かに、ガルダとは邪教徒討伐の時にパーティを組んだ。
関わり合いたくもなかった邪教徒討伐はガルダの横車でシガーフル隊が請け負うことになり、僕たちは死ぬ思いと悲しい思いをした。
僕はその件でまだガルダを恨んでいるのだ。
「ガルダさんにはノラさんがいるでしょう!」
ガルダの相棒のノラならばよほどの強者でなければ相手にならない。
戦力としてはそれで十分なはずだ。
「あいつはダメだ。本当に戦うことしか頭にない。そこ行くとお前はきちんと損得計算ができる。口も立つし、落としどころも探れる。それから他人を手足として使えるし、おまけに嘘も平気で付ける。金に縁が無いことを除けば尊敬に値するぜ」
それはつまり尊敬できない貧乏人という意味なのだろうか。
僕自身、あまりガルダとは関わりたくないのだけど、彼にかかればどうしても僕の望まない方に話が動いていく。
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