第129話 エランジェス

「ところで、ネルハの前の主人は誰だったんだ?」


 シグの何気ない問いに、ネルハはうつむいて小声で答えた。


「エランジェス・キュード様です」


 その回答にシグは口に運びかけていたパンを床に落とした。

 人の顔が青くなるとはこういうことだと僕は思った。

 それほど見事にシグは狼狽えていた。


「あ、汚ねえな。食い物を粗末にするなよ!」


 ルガムの場違いな抗議を聞き流し、シグはネルハの前に右手をかざした。その右手が小刻みに震えている。


「聞き間違いか。今、お前の口からキュードファミリーのボスの名前が出た気がするんだけど」


「はい、間違いございません」


「なんだ、そのエランジェスってやつは?」


 ルガムの言葉をシグは慌てて立ち上がって止めた。


「迂闊にその名前を口にするな、殺されるぞ!」


 そう言うと再び席に座り、身の回りの荷物を纏める。

 場所は都市内の酒場だというのに、シグの表情は迷宮内を歩くときのように緊張している。

 よく見るとその額には玉の汗が浮かび上がり、彼の動揺が見てとれる。


「そういうことなら俺はこれ以上関われない。悪いが帰らせて貰う」

 

「別にいいけどさ、もう少しだけ話していきなよ。そのナントカいうやつについて」


 早々に立ち去ろうとするシグの服の裾を捕まえたルガムが説明を求める。

 一瞬だけその手を振り払おうとしたものの、ルガムに離す気がないと解ると諦めたようで、ため息を吐いた。


「解った、説明はする。だがここはダメだ。せめて他に人がいない場所に行こう」


 そうして僕たちは飲み食いの清算を済ませると足早にルガムの家に向かった。

 シグはその間も周囲に気を払い、通行人の視線を滑稽なほど気にしていた。



「じゃあ、説明してよ」


 僕たちが食堂のテーブルに座ると、家主のルガムが切り出した。

 シグは差し出されたコップの水を一口飲むと落ち着いたようでようやく口を開きだした。


「エランジェス・キュードは恐ろしい男だ。通称『にやけ顔』のエランジェス。またの名を『挽き肉』エランジェス」


 その禁忌に触れるのがよほど恐ろしいのだろう。机の上で組んだシグの指は細かく震えていた。

 

「基本的にエランジェスは商人だ。主に言えば娼館を経営している」


「へえ、どこのこと?」


 僕はシグに聞いた。

 この都市には娼婦を置く店がいくつもあり、僕は利用したことがないものの、いくつか店名くらいは知っている。

 どの程度の店舗なのかを知ればその経済力なんかもわかるだろう。


「全部だ」


 しかし、シグの口から出た回答は僕の想定とは大きく異なっていた。


「この都市にある娼館はすべてエランジェスの持ち物だ。高級志向から三流までな。ついでに言えば街頭に立って客を取っている立ちんぼだって全員がエランジェスにいくらか支払っている。わかるか、この都市にあって娼婦をやろうと思えば絶対にエランジェスの下につかなきゃダメなんだよ」


 シグの言葉は荒唐無稽に思えた。

 この都市に一体、何人の娼婦がいるのだろうか。

 迷宮につられて大量の男が流れ込むため、それを当て込んだその手の商売は無数の人間が携わっているはずだ。

 だけどシグの表情を見る限り、冗談では無さそうだった。


「領主府や役人に大量の付け届けをして他の者に営業許可が下りないようにしているらしいが、そうでなくてもこの都市に長く住んだ者ならエランジェスとは揉めないように細心の注意を払うだろうよ」


 残念ながら僕もルガムもステアもこの都市にやって来て日が浅い。

 そのためエランジェスという人間を知らない。だけど普段から魔物と勇ましく対峙するようなシグがここまで慌てているのだから、恐ろしさも少しは想像できる。


「でもほら、なにも僕がそのエランジェスっていう人と揉めた訳でもないしさ。ネルハだって要らないから売りに出したんだろうし、そこまで心配しなくてもいいんじゃないかな」


 いいながら、いつも考えすぎる僕とシグの立場が逆だな、なんてどうでもいいことを思った。

 

「いや、ダメだ。俺はエランジェスとは関わりたくない。悪いがお前とはしばらく距離をとらせて貰う。冒険もその間は休止だ」


「なんだよ、たかが商人にビビり過ぎじゃないのか? 迷宮の魔物より強い訳でもないだろうよ」


 ルガムがシグをくさす。

 だけどシグはゆっくりと首を振った。


「そうじゃないんだよ。その場で殴り合ってどっちが強いかを決める迷宮での戦闘と、キュードファミリーとじゃ厄介さが別だ。やつらは大所帯で金も持っている。この都市でうまくやる知恵もあるし、いざとなったら抱え込んだ役人を使って一方的に有利な立場にも立てる。そうでなくても用心棒として達人級の冒険者崩れをかなりの数を抱えている」


 北方領主や『荒野の家教会』も危険な勢力には違いなかったものの、それらは本拠地が遥か遠方にあり、現場での状況と意思の決定に時差が発生したり、都市内で堂々と動き回れないことから打つ手はあった。

 キュードファミリーはそれらと違うらしい。

 シグの怯えようにもようやく納得がいった。

 金も知恵も暴力も、ついでに権力まで兼ね備えた人間は都市で暮らす以上、敵にまわしてはいけないのだ。

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