余所事の話 小さな恋の覚醒


その瞬間、マールはハッとして偽りの記憶を与えられた日々を自覚できた。


 目の前には、粗末なカウンターがある。


 その奥で、マールの想い人がマールに対して横向きに座り、つまらなそうな顔をしながら、小刀で木を削っている。


 不細工な……多分マールが思うに、精霊神をかたどった置物を作っているようだ。


 もう日が完全に暮れかけており、監視していた粗末な小屋の入り口はすでに閉ざされ、窓も落とし戸が閉められ粗末な木のかんぬきによって施錠されている。

 屋内はランプのほのかな明かりだけが光源だった。


 屋内にはマールとジロ・ガルニエだけしかいなかった。



「それで、マール。アルフレッドから、何か報告はあるか?」


「ハッ! まだリビンスキーがスミシーに持たせた報告に対して返答はありません」

 意気込みすぎて、自分で意識していた以上の声量が喉からあふれ出て、マールは内心それを恥ずかしく思った。


「普段ならどの位の期間で、返答があるんだ?」

 像の木くずをフッと息で払いながらジロは聞いてきた。



マールは記憶を取り戻し、いつもの通り、ジロに対して強い情欲を感じて、熱っぽくジロの横顔を見つめる。


 マールが毎日夢想、想像していた力よりも、はるかに超える力をもつ男がそこに、マールが手を伸ばせば触れられる程、近くに座っていた。


 かつて見た秘者よりも強く、しかも見栄えも申し分ない。



 ジロの気だるげな横顔にマールは見惚れた。



 偽りの記憶中でさえ、好ましく見えたジロの顔はその実力を知った今は、神々しくさえ見えた。



 だが、マールは余計な事を口にしない。



 ジロの洗脳や暗示によって、口にできないのではなく、マール自身の意思で口にしない。


 ジロはマールを女として見ていない。

 単なる道具として見ているようだし、今は報告だけを望んでいるように見えた。


 マールはジロに対し、どんな些細な事でさえ、煩わしいとか、嫌だとか、そんな負の感情を一瞬、一回たりとも、いだかせたくはなかった。



 マールは毎回、ジロがキーワードを使って記憶を戻す今のマールの状態でいることを切に望んでいた。


 森の窪地くぼちの出来事をすっかり忘れ、想い人への想いさえ、偽りの記憶に塗り替えられる自分に戻さないでいて欲しいと、マールは今日も口にしたかった。


 そうすればずっとマールはジロの事を想っていられる。



 だが、ジロはどうやらそうすれば、マールがいつかボロを出して、他者に洗脳がバレてしまい、せっかく得たケルパーニュの情報源を失い、再度探すのが億劫だと見ている節がある。


 だからマールはせめてと思い、命じられてもいない秘密結社シカリイクッターの規則を細やかにジロに教えた。

 教える時も、ジロから組織に則した質問があった場合だけ、付け加えた。



そして、今も組織の事を聞かれたので、規則を伝える事にした。



「一般的には距離を考えれば五日ほどです。……ただ、今回はジロ様がキヌサン本国に送り出したスミシーですが、本来ならば副部門長であるスミシーが伝令役を果たすという事はありえません」


 ジロがそれを聞き、手を動かすのを止め、マールを見た。


 視線が合っただけで、マールは顔がほんのりと紅潮し、鼓動が走った直後のように高まっていく。


「そうなのか……まいったな。全力で届けに行けって催眠かけちまった」

 っとジロはマールの目を正面から捕らえながら独り言のように言葉を放った。


 その瞳をジッと見つめていると、マールは夢見心地になってしまう。



 そして、昔の娼家で買われた友達メアリが言っていた事を思い出す。


 昔、稽古の帰り道、唐突にメアリは恋をしたと言い出した。

 それから二人でいる時の話題といえば、それからメアリの恋の話を聞かされるようになっていた。

 マールは恋をした経験がなかったので、メアリの話す内容には、実感をもてなかったし、自分に恋する経験がやって来るとは思ってもみなかった。



「続けるんだ、マール」



 また名前を呼ばれ、それだけの事でドキリと胸が熱くなり、顔がさらに紅潮していく。


 自分がほうけていた失態に気づき、ジロを不快にさせていないかを素早く確認後、態度に出ないように話を続けた。


「はい。シカリイクッターではまずその地にいる連絡員に報告します。連絡員の人選は派遣部隊に一切知らされません。隊長であるリビンスキーも――」


「リビンスキー? 誰だっけ?」

「ジロ様がアルフレッドと呼ぶ人物です」

「ああ、そうだった。マール、これからは奴はアルフレッドで頼む」


何度も名前を呼ばれ、マールは天にも昇る心地になった。


「はい。隊長であるアルフレッドが本部からその人物を聞き、アルフレッドだけがその人物と接触します。事が終わった場合、接触した現地連絡員は交替しますので、現地連絡員の数や人物を把握しているのは、本部でもごく限られた一部です」


「ふーん」

 

 興味を失ったかのようなジロの声音に、マールは内心焦る。



 自分を、見つめて欲しい。

 自分の話に興味を示して欲しい。

 強い欲求がマールの心の奥底でマグマのようにぐつぐつと煮えたぎり始める。



「……その現地員が結社の独自の情報網で本部に伝えますが、今回のジロ様所有の魔法剣強奪任務は、本部が重大事と考えていますので、スミシーが自ら報告に走ったとしても違和感はあまりありません」


 マールは思い切って、ジロに聞かれはしなかったが、自分の考えを述べる。


「ん? そうなのか? 根拠は?」


 ジロが質問を重ねてきた、会話が続く。っという、ただそんな事にさえマールは喜びを感じた。


 自分の意思で喋っても、それがジロに有益な情報ならばいいのだとマールは、賭けてみてよかった。っと思った。


 自分の考えの披露という、普通なら賭けにすらならない、そんな事でさえマールにとっては冒険であった。

 ジロに自分に対してマイナスの印象を一瞬でも持たれたくない。その想いでマールの中は溢れていた。


「根拠は秘密結社シカリイクッターが魔法剣が何よりも重要と考えているからです」


 っとマールは自分の中であれほど大きかった結社の存在がちっぽけでつまらない存在になった事を感じた。


 魔法剣などという、ジロの力の前では子供の持つ木枝剣程度の価値しかない剣を崇め強奪しようとし、ジロ・ガルニエ本人を軽んじる秘密結社シカリイクッターに嘲笑めいた感情を抱いた。



「そうか……そりゃぁいいな。ところでなんで魔法剣がまだあると思っている?」


「時々、小屋やジロ様から強力な魔法反応があったものですから……その……」

 マールは返答に窮した事で、この世の終わりのような気分を味わった。


「おお! やっぱりか! 騙せるかなぁって思って、時々分かり易くやってたんだけど、記憶を失われている時に、確認はしてたんだな?」


 っと笑いながらいたずらが上手くいったとジロは喜んだ。


 それを見たとたんにマールの情緒は一転、この世の春が訪れたように感じた。


 暗殺者マールの心の奥底に沈めたはずの、女の部分が激しく疼く。


 ジロの些細な喜びですら、すでにマールの大きな喜びとなっていた。



「はい、監視中は《魔力感知マジック・ヴァーデ》や《精霊感知スピリト・ヴァーデ》を頻繁に使いますから」

っと付け加えてしまい、マールは勝手に喋ったことを後悔した。


「そうか、そうだな。監視ならそれが普通だよな……」


 ……が、ジロは一向に気にする様子はない。

 マールは自分が思っていたほど、ジロはマールや他の洗脳者を道具扱いしていないのだろうと思った。



「お前達は優秀だなって思っていたから、絶対に引っ掛かると思ってたんだよ」


「はい、まんまとひっかかりました」


 とマールがおそるおそる軽口を効くと、ジロはよかった、よかったと再び喜んだ。



「そうか、それなら今回は大丈夫そうだな。監視員の問題はない。お前達と同じように調べて洗脳できる。

「よく教えてくれたな。これからは規則と違った指示なんかを俺が出したらそれを俺に教えるんだ。それだけじゃなく、今度規則を思い出せる限り教えてくれ。そうだな、各部門に違いがあるかもしれないから他の三人にも聞かないといけないな……」


 それを聞いて、マールは嫉妬の思いが急に渦巻いた。アルフレッド、スミシー、ゴドウを亡き者にしてしまいたいと思うほどに。


 他人にあまり興味を抱かない自分の中に、これほど大きな嫉妬芯があったのかとマールは自分の感情の激しさに驚いた。



「とにかく、そういう事だ。これからは頼む」



「はい、お任せ下さい」

 マールは一歩踏み込めた事に満足した。


 そしてその満足感から、さらに賭けに出てみようと思った。



「ジロ様、お願いがあります」



「うん? なんだ?」

 ジロはニコニコと上機嫌で、木彫り細工を再開した。

 マールもニコニコと自然と笑みが浮かんでくる。



 マールは躊躇ちゅうちょした。



 嫌われてしまうかもしれないと恐ろしくなったが、自分は本当に大丈夫なんだと、ジロだけにはどうしてもその気持ちを伝えたかった。



 まるで物語の騎士に恋するお姫様になってしまったようだとそう感じた。



「私は、ジロ様を絶対に裏切りません。どうか記憶をもったままにしてもらいませんでしょうか?」



「記憶の常時保持? う~~~~~~ん。まぁ、ダメだな」




 ジロがそう言って、マールが愚かなマールに戻ってしまう、絶望の象徴でもある合い言葉を言った途端、



 マールはまた偽りの記憶に支配された。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る