余所事の話 小さな恋の孤軍奮闘
気がつくとマールは、丸太小屋の入り口から一歩入った所に立っていた。
いつものように偽りの記憶を辿り、前回「まぁ、ダメだな」とジロが言った瞬間から、十日が経っている事を確認する。
間近で見るジロは、十日前よりも気だるげで、少し眠たそうに見えた。
今の記憶ではジロが毎日夕暮れ時に店へと帰宅し、月が中空へと昇る深夜に店を離れる生活を見続けていた。
だがが、偽りの記憶の中ではジロは一切の外出をしてなどいなかった。
偽りの記憶から目覚めた今でさえ、頭の中にある二つの異なる情報をどちらも真実と捉えている自分にマールは改めてジロの力の凄まじさを感じ取り、一人、恍惚となる。
マールはジロの事を顔は好みだが、なんの面白味のない単なる魔法剣のおまけ程度にしか思っていない偽りの記憶の悪夢から目覚め、現実に舞い戻った事に喜びを感じた。
「本部からの返答はあったか?」
今回のジロは時折アクビをしながらも、何やら薬剤の調合をしている。
その手つきは不器用で、調剤を得意とするマールとしては見ていられなかった。
だが、そんなジロの様子にも愛おしさを感じた。
「なぜ、ダメなのでしょうか?」
マールはポツリと呟いてしまった。
「え?」
ジロがマールを見た。
マールは激しく後悔する。
マールは自己に課した禁忌を犯した。これまで自分は忍耐強い人間だと思っていたが、マールは今の状況にもう一時も耐えることができない自分を発見する。
(あぁ、愛しのジロ様。あなた様の事をお慕い申し上げています。……きっと、記憶に蓋がされていた時もこの想いは私の中で蓄積され続け、ついにはいっぱいになって溢れてしまった)
記憶の蓋が再び取り除かれたマールにとっては、十日前の
(だからジロ様はなんの事なのかなんて、きっと分かっていらっしゃらない……)
多難な人生を今日まで生きてきて、その中で己という者を余すことなく知った気になっていたマールは、自分があそこまで明確なまでに拒絶された後、なおもジロに縋り付くような今の自分の言葉が信じられなかった。
容姿の整ったマールには、十日前のジロとマールの立場を逆転した経験は沢山ある。
希望など持たせずに冷徹に拒絶したのにもかかわらず、女々しくも何度もマールに言い寄ってきた男をこれまで沢山見てきた。
そしてマールはその事を毎回非常に不快に感じた。
(ジロ様もそう感じた事だろう……)
そんな男達の事を今の発言の前に思い出していればと後悔し、マールは震えた。
「どういう事だ?」
「……」
「まいったな、《
呟きを俯きながら効いていたマールは正真正銘の恐怖に囚われた。
死ぬ事が怖いのではない。
ジロに役立たずと判断されるのが、何よりも恐ろしく許し難かった。
(ジロ様は今、頭の中で自分を含めた四人を処分する事を考えていらっしゃる。そしてジロの処分法とは、逃れようのない死のはず……)
神のごときジロに、己の命を捧げるという事に生きたいと思う気持ちとは別にゾクゾクとした悦楽を感じ取る。
だが、死よりも何よりも、マールはこの恋心が伝える前に、自分がジロの前からいなくなってしまうのが、何よりも怖かった。
とっさにマールは《誘導》というジロが口にした魔法に、この恐怖を払いのける糸口を見つけた。
マールは以前、捕虜の尋問に《誘導》を使うのを見た事があった。
マールの所属する水部門の得意とする魔法であったが、実践的ではなく、さらにマールに拷問吏の適性もなかったため、覚えようとはしなかった魔法であった。
それは通常であれば口の固い人間に、日数をかけて口を割らせる魔法だ。
数ヶ月の間、毎日その魔法を地道にかけ続ければ、その捕虜は意識がもうろうとなって、ついには巧妙な質問により、ようやく口を割るに至る。
その加減も難しい上、かけ続ける事により精神に異常をきたし、ほぼ廃人と成り果てる。
マールの目撃したジロの力をもってすれば、知っている《誘導》もまるで別の魔法になっている可能性は高い。
「ジロ様。《誘導》を使っているという事であるなら、私達の意識を奪い、それを使い、私が嘘を言っているのか照らし合わせているのではないでしょうか?」
自分の説明をそんな馬鹿なと思いながらも、マールは当てずっぽうで言った。
「できるが? でも、時間もないし面倒だから最初以外は使ってないな。いちいち会う度に使わなくても、今もお前達はその時の恐怖を思い出す事によって――」
「――私がこの場でジロ様に会っているのは、恐怖心などという、陳腐な感情からのものでは、決してございません!!」
マールは歩み寄り、バン! っとカウンターを叩いていた。
ジロはビクリとして調合中の陶器の瓶を床に落として割った。
「そうか。とりあえず落ち着け、マール。……んっ! 煙が出た。まだ毒しか調合してないし、煙も毒か? でもまぁ……いや自分の生命力実験するには早すぎる気もするが……吸ってみるかな」
ジロは詰め寄ってしまった自分など相手にせず、興味深げに足元から沸き立つ煙に興味を引かれている。
自分の必死の宣言も、ジロにとっては毒煙にすら負けるちっぽけなものなんだという事実に、マールの豊かな胸の奥でチクリと痛みが走った。
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