葉月とラーメン

 朝起きて、粛々とエッセイを書いていた所、ブラウザがクラッシュして書いていたものが飛んだ。もう一度書くのも馬鹿らしいが、かといって折角パソコンを立ち上げたし、キーボードも買い換えたので、どうしたものかと思いながら、特にプランもなく文字列を打ち込んでいる。


 七月は梅雨が長引いて肌寒いほどだったのに、八月に入る直前から非常に暑くなった。こうなると「薔薇の香りの制汗スプレー」とか「シトラス香るパウダーシート」なんて使っている場合ではないので、メンズ用の冷却スプレーを常備する。

 中学生や高校生ぐらいだと「かりすちゃん、なんで男物使ってるのー、変なのー」「彼氏のー?」とかクソくだらない質問が飛ぶが、社会人になると人の持ち物にケチをつける人がいなくなるので楽である。というかよしんばいたとしても気にしないから大丈夫、とも言う。暑さの前で人は無力だ。


 会社に行ったら、先輩が「今日の午後、現場行くんだけど」と話しかけてきた。まぁ行けばいいんじゃないですか。東京は35度ですけど。


「代わりに行かない?」

「は? 寝言は寝てても言わないで下さい」


 と、先輩に従順な私は丁重に断ったのだが、相手は引かない。

 この暑さの中、外に出るのは嫌だ。でも今日は現場に行かなければいけない。お前が暇なら行ってこい、という横暴も良いところの提案だった。

 「行ってよ」「嫌です」という攻防を十五分続けた後、先輩は奥の手だと言わんばかりに溜息をついてから行った。


「じゃあ一緒に行って、途中下車して辛いラーメン(有名店)食べに行こう」

「あー、まぁそれならいいですけど」


 それでいいのか? 何か間違っていないか?

 一緒に行くという選択肢が出ちゃったら、別に一人で行けばいいのでは?


 そんな疑問を抱えつつも、辛いラーメンの魅力には抗えない。

 昼前に会社を出て、目的地の一つ手前の駅で降りる。オフィス街の路面は照り返しが強く、店に行くまでに脳みその半分が溶けそうなほどだった。実際溶けたかは知らないが、少なくとも私の眉毛は消滅した。


 ラーメン屋で辛いスープを麺に絡めて啜りあげながら、そこで漸く今日の作業を確認する。確かに内容的には一人で出来るものだが、しかし量がかなり多かった。


「それ一人でやるの厳しくないですか?」

「うん、リミット17時だしね」


 今から現場に行くと13時。4時間で作業を終わらせるのは殆ど不可能に近い。

 スープの中に浮いている卵を食べながら考えこみ、そして唐辛子と一緒に飲み込んでから私は相手に訊ねた。


「もしかして、最初から二人で行くつもりでした?」

「だってあぁやって言わないと、淡島は来ないじゃん」


 嵌められた。

 なんて狡猾な先輩だろうか。悔しさと悲しさから汗が出る。辛さ6のラーメンは、どろりとした沈殿物が器の底に溜まっていた。


「酷い。卑怯者」

「ごめんって。奢ってあげるから許して」

「じゃあ許します」


 四時間後に、やっぱり許せない気持ちが戻ってくるのだが、私はとりあえず目先の欲にしがみついた。こういう性格だから利用されるのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る