午前十時の存在証明

 私小説風エッセイとでもいうのか、まぁよくわからないが、小説っぽく書いたエッセイを見て自分もやりたいなと思ったのでやってみる。男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。


***


 ラジオからは微かに音が聞こえていた。少し声に癖のある男が、流行のナンバーの紹介をしている。今年の春にデビューしたばかりの天才的歌声の持ち主とやらに、全く聞き覚えはなかった。要するに自分はもう若くないんだろうな、と当たり前のことを思いながら煙草を口に咥える。

 助手席の窓を少し開ける。小雨が降るの天気に相応しい冷たい風が中に流れこんできた。煙草に火を点けて煙を吐き出すと、緩く捻じれながら窓の外へと吸い込まれるように消えていく。


「それ何」


 運転席でハンドルを握っていた男が口を開く。首都高に乗る前に短い会話を交わして以来だから、実に三十分振りの会話だった。私が銘柄の略称を答えると、相手は一本寄越せとジェスチャーで伝えてきた。


「降りるまで吸わないんじゃなかったんですか」

「全然進まないじゃん」


 気だるい口調が示すのは、前に続く車の列のことだった。どこかで事故が起きたらしく、もう十分は動かない。小雨のかかったフロントガラスの上を、ワイパーが淡々と左右している。


「飯食えるかな」

「厳しいでしょうね」

「抜きか」


 でしょうね、と繰り返す。ワイパーの音が車内に何度か響いた。車の列は依然として進まない。ラジオでは既に曲が終わり、パーソナリティがリスナーから届いたメールの紹介をしていた。


「話題がないんですよね」


 数分後に私は観念したように口を開いた。

 ついでのように雨のかかった箇所を指で拭う。生まれつき大きな血腫があったその場所は、完治した今も他より皮膚が薄い。そのため他よりも刺激が伝わりやすくなっていた。


「口に出すなよ。俺だってそう思ってたけど黙ってたんだから」

「いや、だって仕事してれば話題ありますけど、車乗ってる時の雑談をするほど親しくないし」

「何でもいいよ」

「何でもいいって、ファンデーションの話されたって困るでしょ」

「詳しいの?」

「まさか」


 なんだよそれ、と相手は呆れたように言って煙を吐いた。

 決して仲は悪くないが、如何せんどちらも自分から話を振るタイプではなかった。年齢と性別が違うので共通の話題もない。


「ファンデーションって言えばさ」


 数秒してから相手がそう切り出した。私は短くなった煙草を、車の灰皿の中に押し込む。


「あの、顔につけるときのスポンジ」

「パフ?」

「あれって使い捨てなの?」

「そういうのも売ってますけど、大体は専用のものがついてますね」

「ずっと使うの?」

「いや、偶には洗いますよ。汚いし」


 ふうん、と興味なさそうな声が返る。車の列が少し進んだ。


「皮脂が付きますからね」

「専用の洗剤とかあるの?」

「あるんじゃないですか。私はウタマロ石鹸で洗いますけど」


 息の抜ける音がして、煙が車内に散った。


「久々に聞いた」

「何を? 石鹸?」

「昔、上履き洗うのに使ってた」


 暫く二人で笑った後、また沈黙が戻ってきた。煙草の箱の底を指で弾きながら、何かないかと考え込む。他愛もない話が浮かんでは消えて行って、どうしても舌の上まで到達しない。窓の隙間から入る小雨が額を微かに濡らす。

 そういえば、数年前にこの人と北陸で仕事をした時も雨だったと思い出す。あの時はどうしたのだったか。少なくとも今のように、仕事中に軽口を叩きあうほど親しくはなかった筈だ。

 ニコチンで鈍った脳を回していると、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。シーファーシーファーと聞こえるその音を追いかけていると、唐突に過去の記憶が蘇ってきた。


「そういえば、T病院で仕事しましたよね」

「あぁ、XX年の正月」

「あの時、珈琲代貸したままじゃないですか?」


 相手は一度こちらを見て、目を何度か瞬かせた。


「そうだっけ?」

「ほら、病院併設のカフェで時間つぶしした時に」


 救急車両が通る場所に近いため、店内BGMよりもサイレンの音が記憶に残るカフェ。珈琲は分厚い陶器のカップに並々と注がれた薄いアメリカンだった。百五十円が妥当な数字かどうかは意見が別れるところだろうが、席に座って時間を潰すには丁度良いアイテムだった。


「貸しましたよ」

「多分返したと思うけど」

「まぁ多分返してもらったと思いますけど」


 互いに怪訝な表情をしているのに気付く。特に相手は眉間に深い皺を寄せて、フロントガラスにその表情を映しこんでいた。暫くしてから、首を軽く捻って相手は口を開いた。


「淡島さんいたっけ?」

「いましたよ」


 煙草を口に咥えながらだったので、「ひまひたよ」に近い発音になる。

 二人で仕事をしたのだから、私がいなければ彼一人が作業をしたことになる。それはないだろう。無いと思いたい。しかし、それを裏付けるだけの証言を私はすることが出来なかった。


「……あの時、何をしましたっけ?」

「はぁ?」


 両者揃って、色々なことを忘れている。私の中ではあの時の百五十円だけが宙にぶら下がっている状態で、その他のことは綺麗に消え去っている。相手の中では私という存在だけが、その記憶から弾き出されてしまっていた。


「いたっけ?」

「何しましたっけ?」


 同じ疑問を繰り返しながら、煙草の煙を外に吐き出す。車の列は漸くゆるりと動き出していた。遠くなったサイレンの音を耳の中で繰り返しながら、記憶の中を探ろうとする。確かに私はあの病院にいた。何をしたかは記憶にはないし、それを裏付けるための出張精算も遠い昔に破棄してしまったが、確かにいた筈だ。


 それをどうやって証明すべきか。運転している相手も、未だに私がそこにいたことを思い出せないらしい。このままでは証拠不十分で私の存在が否定されてしまう。

 しかし、証明が出来ないのであれば、検証が出来ないのであれば、それはただの主張にすぎない。私という存在は私が証明すべきなのに、その手段は半ば立たれている。頭の中でクルクルと回る百円玉と五十円玉が目障りだった。その幻想を払うかのように、私は窓を半分空ける。傍らを走り抜けていったバイクの黒い排気ガスが、臭気と共に車内に満ちた。

 目的地まではまだ遠い。

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