3月11日

 今日という日については、あの日関東にいた私にとっては「取引先から帰れなかったなぁ」という思い出のみである。気仙沼に行こうとしていた保守担当の人は、持っていくはずのカードリーダに不具合が見つかって、予定を先に延ばしたので命拾いをした。元々東北支社にいた人は、翌日に病院のサーバを再起動すべく車を走らせ、そこで色々見たと言う。


 仕事の性質上、あの混乱の中でも私達にはシステムを動かす必要があった。そのため、翌日に家に一度帰った後は二週間ほど泊まり込みで仕事をした。東北の仕事もいくつか抱えていたし、そもそも仕事は放射線科に行くことが圧倒的に多い。ネットに流れる噂話やデマに怯える暇もなかった。津波で流されたサーバは戻ってこないが、病院は機能しているからだ。


 コンビニには何もなかったが、飲食店でバイトをしていた経験から、そういった所に食料があるのはわかっていた。毎日居酒屋で、ご飯とモツ煮と焼き魚を食べていた。駅前のその店は、存外人が多かったように思う。

 偶然であるが、震災の前にトイレットペーパーをダンボール一箱分、注文していた。それは少し遅れて実家に届いた。私はその時にいなかったが、居合わせた親戚達と平等に分け合ったという。どうやらトイレットペーパーの買い占めがあったようだ。輪番停電もあったという。私はその間は家にいなかったので何も知らない。


 宮城県の病院に仕事で赴いたのは、震災から一年後だったと思う。

 まだ目的地までの電車が復旧していなかった。仙台駅から高速バスに乗って行くしかなく、そして目的地のホテルは利用制限されていたから、どんなに仕事が山積みでも、仙台に戻る最終バスに飛び乗るしかなかった。バスからは手付かずの瓦礫の山や、津波に倒された鉄製の看板などが見えていた。

 看板に書かれた施設は津波に流されてしまったのだと、バスの乗客が連れと話していたのを覚えている。半年後に仕事を引き上げた時、看板だけは何処かに撤去されていた。


 知人の実家は原発の目と鼻の先にあった。

 家族は無事で、殆ど着の身着のまま逃げてきた。彼女の父親はその数カ月前に亡くなったばかりだったが、崩壊した家から位牌と遺影を持ってくることは出来なかった。

 彼女は私に、それらを持って帰ってくるにはどうしたらいいだろうかと質問してきた。彼女はネットに溢れる様々な情報を取捨選択する余裕がないほど憔悴していた。結局、彼女が実家からいくつかの物を持ち帰ってきたのは一年以上後のことだった。


 震災の時に起きた苦労を私は殆ど体験していない。

 だがこの日が近づくと、上記のことを思い出す。

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