逃避行未遂

 朝、いつものように会社に向かい、あと数メートルで到着というところで電話が来た。

 始業前の電話なんて受け付けてませんわよ、と社用携帯を見ると、同じ路線で仕事をしている先輩からだった。


「携帯を電車に忘れたみたいでさ」

「へー、大変っすね。切っていい?」

「位置情報見てみたら、今、K駅にあるんだよ」


 嫌な予感。

 先輩が電話を掛けているのは、作業場があるD駅だろう。私がいるのはN駅だ。K駅はその丁度真ん中に位置する。


「その電車、N駅に9時32分に着くんだよ。だから、拾ってきてくれない?」


 絶対そうだと思った。

 なんで悪い予感というものは的中率が高いのか。あるいは良い予感と的中率は同じでも、印象に残りやすいのか。どちらでもいい。兎に角、今はその悪い予感が当たったのである。

 電話越しに苦笑いを浮かべ、どうにか回避しようと口を開く。会社が入っているビルは今日も涼し気なエントランスを晒して私を迎え入れたが、こちらの気分は曇っている。


「いや、うちの会社9時からですよ。今から行ったら遅刻しますよ」

「会社には一度行って、部長に許可取ればいいじゃん」

「面倒くさい」


 先輩からは「お前には後輩らしい可愛さがない」と苦言を呈される私だが、今は普段の倍以上の可愛げの無さで応じる。会社に入ると、電話しながら歩く私に皆が怪訝そうな顔を向ける。


「もう諦めればいいじゃないですか」

「嫌だよ。落としものとして処理されたら、本人確認面倒くさいだろ」

「んじゃ部長と話してくださいよ」


 近くを通りかかった部長に携帯電話を渡す。諦めるように諭してくれればいいなーと思っていたが、生憎なことに部長はとても心優しかった。


「いいよ、行っておいで」


 そんな優しいお言葉と共に携帯電話が返された。

 部長がもっとドライな性格だったらよかったのに。そんなとんでもないことを考えながら、携帯と定期だけ持って会社を出る。背中に刺さる皆の目が痒い。

 駅までは徒歩数分なので、すぐに目的の電車が着くホームへと辿り着いた。電光掲示板を見つめながら、電車が来るのを待つ。先輩の話によれば、三両目に乗っていたということだった。「3」と書かれたパネルの上で足踏みしながら待っていると、電車が到着した。

 急いで乗り込み、周囲を見回す。床の上には土や枯れ葉が落ちているが、スマートフォンは見当たらない。不審者丸出しで車両の端から端まで見てみたが、スマートフォンは愚か、パンの袋すらなかった。


「無いんですけど」

「位置情報も消えちゃったし、誰かがどこかに届けてくれたのかなぁ」

「経験則から言うと、拾得物として届けられた携帯は電源を切られますね」


 電話の向こうで先輩が嘆いている。嘆くのはいいから諦めてくれないか。

 そんなことを考えているうちに電車の扉が閉まってしまった。仕方ない、次の駅で降りるかと思って行き先表示パネルを見ると、「XX線内快速」だった。要するに、五駅ぐらいスキップした先じゃないと停止しない。

 あまりに不運に泣きそうになったが、ふとそこで違和感に気付いた。


 あれ、もしかして三両目って後ろから三両目じゃないか?

 D駅は改札が七両目と八両目の間にある。三両目だとその間に別の路線との連絡通路があるから、改札に辿り着くまで時間がかかる。

 どうせ次に止まるのは五駅先だしな、と車両の中を歩き出した。危ないから良い子は真似してはいけない。

 XX線内は山の方面に向かうので、朝は混み合っているが九時を超えると乗客が減る。

 少ない乗客が、荷物も持たずにスーツ姿で歩いている私をジロジロ見る。やめて。放っておいて。


 長い長い車両を超えて、漸く末尾から三両目に到着した。

 それでもどこにもスマートフォンはない。

 見当違いだったかな? と思いつつも、次の駅まであとどのぐらいか確認しようと視線を上げた。その途端、網棚に引っかかっている見慣れたスマートフォンが見えた。


 誰か載せてくれたんだろうな、うん。

 親切にありがとうございます。


 それを手に取ると、色々な人からの着信が表示されていた。

 作業場の皆さんで掛けてくれたんだろう。重ね重ねありがとうございます。

 でも電車の中で通話するわけにはいかない。コートの中にスマートフォンを突っ込む。


 先輩に連絡しなきゃなぁ、と思いながらも色々面倒になってきた。

 窓の外にはどこか寒々しい山の景色が見える。曇り空の下、点々と民家が建っている。


 このまま終点まで行こうかな。いや、駄目だな。お金ないし。

 財布ぐらい持ってくればよかったと思いながら、誰もいない車両で目を閉じる。コートのポケットの中でスマートフォンは静かに震えていた。

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