死ぬかと思った

 地味に死ぬかと思った話。

 新しくオープンする病院で仕事をすることが稀にある。工事中に作業をしたり、工事の工程で生じる作業のために中断されたりと、それはそれで結構面白い。

 だがそういう場合、必ずと言っていいほど、ある点において制約事項がかかる。


 お手洗いである。


 こういう場合、まだ建物は病院に正式に渡されていない。だからそこに入っている設備を勝手に使うことは許されない。だが、人間どうしてもトイレだけは行かなくてはいけないし、流石にそれを禁じる人はいない。

 その結果「此処と此処のトイレだけは使っていいよ」と制限事項付きでトイレの使用許可が降りるのである。


 ある病院では、その使用許可が五階のトイレに対して下ろされた。

 私達は一階で作業をしていたため、五階に行くには階段を使わなければいけないので少々面倒だったが、かといってそこ以外に選択肢はないから、毎日せっせと階段の昇り降りをしていた。


 某日のことである。

 その日も朝からせっせと仕事をしていたが、昼過ぎぐらいにお手洗いに行きたくなった。

 いつものように階段室に入り、のろのろと階段を登っていたところ、不意に天井のスピーカーのスイッチが入った。


『院内放送です。かねてからの告知の通り、本日一時よりセキュリティシステムが稼働します。今後、階段やエレベータの利用にはカードキーをご利用下さい』


 放送が終わると同時にアラート音が各所から響き渡り、続いてロックの音がした。

 あれ? 今もしかして閉まった?

 そういえば二週間ぐらい前にカードキー渡された気がする。気はするけど、今は持っていない。


 今の放送は、階段室のセキュリティが起動したことを示している。

 試しにすぐ近くの扉を引っ張ってみたが、ビクともしなかった。傍らの壁のタッチパネルに「LOCKED」と赤く表示されていた。


 まずい。

 トイレに行けない。戻れない。


 なりふり構わず生きている社畜であるが、流石に人間としての尊厳は捨てたくない。

 思わず漁ったスーツの上着からは、日頃から持ち歩いているウェットティッシュが出てきたけど、そういうことじゃない。私は正当に、社会人として、あまり周りに迷惑をかけずに生きていたい。


 焦りながらも、一先ず上を目指す。

 実は五階のトイレは女性のみに解放されている。そして病院内に女性は非常に少ない。従って、この階段室を使用する人間自体、殆どいないのである。五階に辿り着いた時に、偶然誰かが開けてくれる可能性は無いに等しい。


 焦りのせいで、トイレへ行きたいという気持ちが一層膨れ上がるのを、心頭滅却して頭から振り払う。私はトイレに行きたいのではない。階段を登りたいだけである。そう自分に言い聞かせた。これで私も立派な変人だ。


 しかし何度振り払っても、誤魔化しきれるものではない。

 頭の中には最悪の事態が何度も過ぎる。もしそんなことになったら最後、私は明日から会社に行かない。自室に篭って泣く日々を過ごす。泣きながら、某二丁拳銃の海賊漫画でも読んで「私も運び屋になる」とか現実逃避を開始する。

 嗚呼、どうしてもう少し早く、あるいは遅く、トイレに行かなかったのだろう。

 セキュリティの稼動日を忘れていた自分が悪いのだが、それにしても神様は意地悪だ。


 泣きそうになりながら四階に差し掛かった時、上から解錠音が聞こえた。

 その時、私にはそれがスローで聞こえた。まるで天上からの美しい音楽でも聞いたかのような表情をしていたと思う。

 階段を一段飛ばしで駆け上がり、五階へと急ぐ。鉄製の扉は閉まりかけていたが、扉そのものが重いので動作はゆっくりだ。足をもつれさせながらその扉を掴んだ私の横で、何やら聞き慣れた声がした。


「どうしたの、淡島さん」


 そこには直属の先輩が、きょとんとした顔で立っていた。

 ドアを開けたのは先輩だったらしい。ありがとうございます。入社X年、これほど先輩を尊敬したことはありません。

 先程とは別の意味で泣きそうになりながら、「お手洗い……」と小さく呟いた私に対して、先輩は笑みを浮かべた。


「あ、さっきトイレットペーパー使いきっちゃった。ごめんね」


 尊敬と涙を返せ。

 でも大丈夫。私にはウェットティッシュがあるから。


 本当にあの時は(私の自尊心が)死ぬかと思った。

 それ以降は、特に理由がない限りは、支給されたカードキーや腕章などは常に身に着けて行動するようにしている。

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