一時間一万円

 今の会社の規約は忘れたが、前の会社は宿泊費の上限が決まっていた。それを超えなければ差分がもらえるので、出張時にはなるべく安い宿を取って、その差分をGETしていた。一泊程度じゃどうということもないが、一週間だと結構な差分となる。確かシーズンオフの北海道に行った時には、それで二万円ぐらい手に入れた。


 今も安い宿を選ぶ癖がある。まぁカプセルホテルには流石に泊まらない。あれは女性用フロアがないところのほうが圧倒的に多いし、休まらない。


 二年目か三年目の頃、ある地方でデスマーチをしていた。

 月曜日に行って、金曜日に戻ってくる。ということを数週間は続けていた。当時は実家に住んでいたので、洗濯を親に投げ出せたのがせめてもの救いだっただろう。


 いい感じにぶっ壊れながら仕事をしていた時に、その地方担当のエリアマネージャが気を利かせたのか、勝手に宿を手配した。そこは元々有名な温泉地であり、少し足を伸ばせば海を望む旅館がいくつもある。エリアマネージャが予約したのは、そのうちの一つだった。


 お値段、一泊一万円。


 正直、勘弁して欲しかった。

 出張後で申請すれば精算はされるとはいえ、一万円って。一万円の宿なんかいらないから、すぐ近くのビジホ(六千円)でさっさと寝たかった。

 しかも手配された日は稼働の前日。温泉宿で優雅に温泉に浸っている暇なんかない。


 予想通り、仕事は難航。進捗ダメです。

 午前四時を過ぎて、ケーブルにスパイラル(コードまとめる道具)を巻きつけているようでは駄目だ。

 電車も動いていない。タクシーだってない。その宿に行く術などないが、かといって周辺の宿は全部埋まっている。私の行き場はない。

 仕方ない、もうこのまま朝を迎えよう。一万円はエリアマネージャに支払わせる。

 そう考えていた時、プロマネが私の宿泊先を思い出して声をかけてきた。


「今から行けば、お風呂ぐらいは入れますよね」

「え、もういいです……。サーバ室にダンボール敷いて寝ます」

「そういうわけには。車出すから行きましょう」


 正直、勘弁して欲しいパート2。

 温泉好きだけど、こういう状況で入りたくない。もっと有給三日ぐらい取った状態で、まったりじっとり入りたい。

 そう思いながらも車に乗り込み、その宿の前で下ろしてもらった。二時間後に迎えに来ますね、といってプロマネはクールに去っていった。事故らないようお願いします。


 記憶はおぼろげだが、ちゃんとした旅館だった。

 若いシステムエンジニアが稼働前に泊まるような場所ではない。ビジホが私には似合っている。

 朦朧とした意識の中でチェックインを済ませ、畳張りの部屋に入る。敷かれた布団は分厚くて、きっと横になったらぐっすり寝れるだろう。


 だがそんなことしたら二時間なんてまたたく間に過ぎてしまう。

 泣く泣くそれに踵を返して、私は温泉へと向かった。時刻は既に午前六時前。温泉浴場には早起きのマダム達が朝風呂を楽しんでいた。

 疲れきった顔に冷水をぶっかけ、髪を洗い、絶景を望む露天風呂に入る。

 晩秋の朝風は適度に冷たくて、余計に脳がグラグラした。場所を移動しようとして腰を浮かせたら、温泉独特のぬめりに足を取られて、顔面から水面に突っ込んだ。


 記憶はないが、それから一時間後に私はプロマネの車の中にいた。

 化粧もしていたし、髪も乾かしていた。後生大事に抱え込んだビジネスバッグの中には、チェックアウトの時に出し入れした長財布が中途半端に刺さっている。領収書は貰ったから、会社に請求も出来る。良かった。


「どうでした、温泉」

「覚えてないです」


 滞在時間はおよそ一時間。それでも一万円。

 後にも先にも、こんなに高い宿泊費はなかった。

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