第25話 ハーフイングリッシュブレックファースト

「ベーコンがそろそろだから、卵の用意をするよ」

 ニワトコさんは、しばらく私が泣いている横でじっと座っていてくれたけれど、やがて、私の頭をポンポンとした。

「めちゃくちゃ美味しい朝ごはんだよ。イギリスで美味しいものを食べたかったら3食朝ごはんを食べろってね」

「イギリスの……朝ごはん……なの?」

 私のしゃべり方はまだちょっとおかしくて、恥ずかしかったけど、ニワトコさんは、気にする様子もなく、椎茸とトマトをグリルに入れた。

「半分イギリス。半分日本。イギリスだったら卵とベーコンとソーセージ、マッシュルームとトマトと……ブラックプディングとか」

 でも日本だから卵とイギリス風ベーコンと椎茸とトマト。それにインゲンのピーナツバター和えにおみおつけ。

「フルイングリッシュブレックファーストじゃなくてハーフイングリッシュブレックファーストだね」

 卵はいくつ食べる? と聞かれて、慌てて「あ、ひとつ……!」と答える。

 声が少し上ずってしまって恥ずかしかった。



 黄金色きんいろの黄身がぷっくりつややかな目玉焼きを、白い粉引の楕円形のお皿に乗せて、その横にグリルしただけの熱々のトマトと、椎茸。反対側にはインゲンのピーナッツバター和え。

 バジルベーコンのスライスはグリルでじっくり焼かれたせいで脂身の部分がキツネ色でカリカリだ。

 小さなご飯茶碗に、ふわっと軽くお米をよそって、小口切りにした万能ねぎだけがドバっとたくさん入ったおみおつけ。すぐ横に、ひょうたん型の七味入れが置いてある。

「召し上がれ」

「ニワトコさんは?」

「俺はもう食べたから」

 ニワトコさんはニコニコしながら自分のコップに麦茶を注いだ。

「いただきます」

 両手を合わせて箸を取る。右手でとって、左手で受けて右手を滑らせて。

 まずは、インゲン。

「あ。胡麻和え……みたいな味」

 ピーナツバターのコクと甘みが醤油の味と混ざっている。初めてなのに食べたことがある感じがする味。甘辛のこの味には馴染みがある。

 ピーナッツバターと醤油を混ぜるだけだから簡単だな。私にも多分できる。それに……


「おなか……すいてた……」


「それは良かった」

 ニワトコさんは真面目な顔になった。

「とてもとても弱っている時には、ちゃんとご飯を食べたほうがいいんだよ。話はそれからだよ」

 ほらほら、ベーコンも食べてごらん。

 なんだか、真剣な目で言われたから、そのまま箸をベーコンに向けた。

 ニワトコさんが、薄く切るって言ってたけれど、ベーコンは随分分厚くて、お肉を食べている! って感じ。

「あ、しょっぱい……」

「そこでトマトとマッシュルーム!」

 ニワトコさんは食べ方にまで指令をだしてきた!

 今日のニワトコさんは、いつもよりもずっと……なんて言えばいいんだろう。

 そばにいる、みたいな、感じ。

「トマトはとても熱くなってるから気をつけてね」

 でも、ナイフとフォークがあったほうがいいかな。

 ニワトコさんは立ち上がると、台所の引き出しをあっちこっちあけてナイフとフォークを出してきてくれた。

 椎茸と、ベーコンを小さく切って、フォークで一緒に口に入れる。

「……」

 美味しかった。

 椎茸の汁がじゅわっと染み出して、ベーコンのカリッとした脂身と混ざる。お醤油がいらないくらいしょっぱいベーコンで、トマトの味だけ、椎茸の味だけを食べる。塩も胡椒も振らないで野菜の味だけ。

 目玉焼きのトロットロの半熟の黄身をご飯に乗せて、小さく切ったベーコンを乗せる。

 私は口もきかずにナイフとフォークと箸を動かした。

 母さんのことも。

 学校のことも。

 お金のことも。

 全部とりあえず横に置いておいて、とにかく、ほんのりバジルの匂いのするとてもしょっぱいベーコンと、黄金色の目玉焼きと、口の中がやけどしそうなくらい熱いトマトと椎茸だけに、ただただ、心をかたむけていた。

 ニワトコさんが作ってくれた朝ごはんは、どれも、なんてことのないものなのに、お米の粒のひとつひとつまで、ぎゅっと噛みしめると私の口の中で弾けて、何か小さな力が少しずつ、私の体の中に入ってくる。

 とても。普通の。坂井家の食卓に並んでてもおかしくない。朝ごはん。

 でも、今、私の目の前にある、ニワトコさんの朝ごはんは、絶対に、ただの朝ごはんなんかじゃなかった。

 時々、本当になんてことない、日常の中にあるものが、魔法を持つことがある。

 それは湯呑みに一杯のお茶だったり、手渡されたタオルだったりする。

 そして、今、自分が食べているのが、ニワトコさんの魔法がたくさん込められたご飯だって、それだけは、なぜだか、私はわかっていた。

 だから、それがなんの魔法かはわからないけれど、このご飯は、ちゃんと向き合って食べなくちゃいけないご飯だった。



 ネギがいっぱいのおみおつけに七味を振って、いただいて、お椀を下ろすと、食卓には空になった器だけが並んだ。

「ごちそうさまでした」

 箸を箸置きに置いて、両手を合わせる。

 ニワトコさんはまだ真剣な顔のままこちらを見ていた。

「とても、美味しかったです」

 私は左手で額の汗を拭く。

 暑い。体の中からポカポカしてる。

 キワコさんの台所の小さな出窓から差し込む日差しは目に暴力的なくらい、眩しくて強かった。 

 ニワトコさんの半袖シャツがものすごく白い。

 ああ、7月なんだ。

 もう、夏なんだね。

 なんでだろう、日差しがこんなに強いことに今まで気づかなかった。


 私の小さな世界は、ちょっとしたことでとても大きく揺れてしまって、私はすぐに右往左往してしまう。私にとって、今まで母さんは世界の87%ぐらいの大きさで、学校よりも、友達よりもずっと大きかった。

 私はずっと守られて育ってきていて、今も、自分の足で歩ける自信なんて本当は全然ない。


「ユキノちゃんはね、自分でご飯が作れるようになるといいよ」

 前にも言ったことを、ニワトコさんがもう一度言った。

「前に進めないときにはね、何か新しいスキルを身につけるといいんだよ。ユキノちゃんは、ご飯をおいしそうに食べる天才だから、ご飯を自分で作れるようになるといいよ」

 ご飯を美味しそうに食べるのって才能なの? ニワトコさん。

 私はとても答えが知りたかったけれど、ニワトコさんは返事をしてくれなかった。

 そのかわり、

「この冒険が終わったら、ケジャリの作り方を教えてあげる」

 って。なんだか変なフラグを立てるみたいな言い方をした。

「ケジャリ?」

「大英帝国の朝ごはんだよ。インドの郷土料理をイギリス人がアレンジした。そして、多分日本の人は好きな味だと思うな。教えてあげる。ユキノちゃんの得意料理になるよ」

 インドからイギリスに行って日本に来るの。

「人間もご飯も、混ざるんだよ。端っこの人たちは、気をつけてればとても美味しいご飯が作れる」

 端っこの人たち。

 日本とイギリスの端っこのニワトコさん。

 学校からはみ出しちゃいそうなワタシ。

 ――端っこの人たちって、私達みたいな人のこと?



 ただし、ケジャリを作るのは、一段落してからだな。

 と、ニワトコさんは伸びをした。

「ユキノちゃん、長い距離を歩ける運動靴は持ってる?」

 学校の体育で使うのがあるよ。

「リュックと水筒は?」

 うん。あるよ。

「それじゃあ、装備はあるね」

 ニワトコさんは至って真面目な顔で言った。

「冒険に出かけるときが来たよ、ユキノちゃん。召喚魔法を使おう」

 召喚魔法って、魔物や、妖精や神様がこっちに来てくれるんじゃないの? 

 こっちが、でかけるの?

 運動靴、必要なの?

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