第24話 インゲンのピーナッツバター和え

「おお、情熱的なお母さんだね……」

 ニワトコさんは困ったような顔をしてひんやりと冷たい麦茶を出してくれた。氷がカラカラ音を立てる。

「ユキノちゃん、お母さんと、そんなことがあったんだ……」

 私は何も言わないでキワコさんの台所の食卓に突っ伏したまま、頭を動かした。

 頷いてる——つもり。

「……大丈夫? ユキノちゃん?」

「……だいじょばない……」

 えーん。




 あの後。

 タケシは、とてもとても困ったような顔をして私の部屋に来て謝った。あんな風に話が転ぶなんて思ってなかったんだよ。ゴメン、ユッキ。

 ちょっとイライラしてただけだったんだって。

 母さんは割りと勢いで物を言うから、本気にすると損するよって言ってくれた。

 ユッキはさ、小さい頃から母さんの言うことを真面目にとりすぎだよ。言っちゃいけない言葉とかもさ、なんで真面目に守ってるんだろって前から思ってたよ。

 適当に流しとけばすぐ忘れるよ。


 だけど、今朝起きてから、母さんは私と一言もちゃんと口をきいてくれていない。目も合わせてくれていない。


 ねえ、おねがい。どうして返事してくれないの?!


 ——胸が一杯で何を言って良いのかわからないからよ。



 ……ずるい。そんなこと言われちゃったら、もう何も言えないよ。


 でも、母さんは本気で「好きにしなさい」って言ったんだと思う。

 7月分のお小遣いをタケシだけに渡して、私を無視したまま、いつもよりずっと早く仕事に行ってしまったから。

 タケシは困ったような視線を私にチラっと投げてから「行ってくる」って小さい声で私に挨拶して——それからドアを出た。



 「タイミングも、悪かったの……」

 一人になってから家の食卓でぼーっとしていたらリリさんからLINEのメッセージが来た。

 ——この間話していた子なんだけど、来週会えるってよ? ユキノちゃん出てこれる?

 メッセージを見たとたん、胸が大きくドクンと鳴った。

 慌ててお財布を開けて、残っている小銭を数える。

 ——372円。

 3回数えたけど金額は変わらなかった。

 既読のまま返事ができずに十分くらい部屋の中をうろうろしてから、「ごめんなさい」とお返事を書いた。

 これじゃあ、約束の場所になんとかたどり着けても帰ってこれない。もしも待ち合わせの場所が喫茶店だったりしたら困る。

 何も頼まないわけにはいかないし。

 お返事を書いたら喉の奥が痛くなるくらい苦しくて、悲しくて、私はびーびー泣いた。

 リリさんのお友達に会ってみたかった。

 お話を聞きたかった。

 ようやく、何かつかめそうな気持ちになってたのに。



 ——ニワトコのところに行け。

 脳内ホームズが眠そうなまま、指令を出した。




「それじゃあ、まずは朝ごはんにしよう」

 ニワトコさんは、私が、渡された麦茶を飲むのを見とどけると立ち上がった。

「……おなかすいてない」

「でも、朝ごはん食べてないよね?」

 私は首を振る。

 食べるどころじゃなかった。

 なんにも、食べたくないよ。人生に絶望してるよ。

「ユキノちゃん」

 ニワトコさんが、いつになく真剣な顔をして私の方を見た。両方の手を食卓について。

「君には選択肢がある」

 あるの?

「うん。お腹がすいたまま人生に絶望するのか、俺が作るめちゃくちゃ美味しい朝ごはんを食べながら人生に絶望するのか、だ」

 ……。

 …………。

「朝ごはん、食べる……」

 確かに、後者のほうが、ちょっとだけ良い選択肢みたいに聞こえた。



「それじゃあ、これ混ぜてね」

 ニワトコさんはピーナッツバターの瓶と醤油と小鉢を私に手渡した。

「どっちも同じくらいの量入れて、よくかき混ぜてね」

 私はコクっと頷いて、ピーナッツバターと醤油を受け取る。

「ピーナッツバターが結構甘かったから多分砂糖は入れなくても大丈夫だと思うんだよなー」

 独り言を言いながらニワトコさんはインゲンをゆがく。

「ネギがどっさり入ったおみおつけと、インゲンのピーナッツバター和えと、それから自家製ベーコンと目玉焼き、それにグリルしたトマトなんかどうかな」

「ベーコンって、自分で作れるの?」

 私はびっくりして聞き返してしまう。

「燻製するの?」

「ううん。燻製しない簡単版ベーコン。今日のは干したバジルの葉っぱを使ってるからいい匂いだよ」


 燻製しないベーコンがあるなんて知らなかった。


「イギリスのスーパーだと、燻製ベーコンと、燻製してないベーコンが、売ってるよ。塩漬けしただけだから、絶対に火を通さないといけないけどね」


 ベーコンばっかりは日本のに慣れなくて、作ってるんだよ。

 豚肉を1キロの塊で買うのなんてこの辺りでは俺だけだよね。

 最近は近所の肉屋さんに顔を覚えられちゃったよ、とニワトコさんは笑った。

 なんだか、ニワトコさんの声が遠い。でも、穏やかな声は気持ちがいい。


「肉の重さに対して4%ぐらいの塩と1%の砂糖を測ってね、塊に擦り込むんだよ。そのままピチッとラップをして、2日ぐらい冷蔵庫で熟成させる。今回は周りに乾燥バジルの葉をまぶして、出てくる水気を吸わせてみたよ」


 本当だったら他にも材料を使うし、溶かした液に漬けるんだよね。それから、冷蔵庫の中で乾燥もさせるんだけど、あくまでも簡易版。


 ユキノちゃんの分、少しスライスしようね。バジルの葉がいい仕事してくれてれば、多分かなり乾燥後に近くなってると思うし。かなり塩が強いから薄く切ろうね。


 ニワトコさんは丁寧な手付きでベーコンをスライスすると、魚焼きグリルに並べた。


 「弱めの火でじっくり脂身がカリカリになるまで焼こう。そっちはできたかな? このインゲンと和えてくれる?」

 コクっと頷いてインゲンを和えてたら、また涙がボロボロ出てきた。


「……悲しいんだね」

「うん」

「そうだよなぁ……。親にわかってもらえないのって、つらいよなあ……」

 ニワトコさんは刺し身を引く板前さんみたいな顔で、トマトを半分に切る。真剣だ。


「私、どうすればいいんだろう」

 口にしたら、止まらなくなった。

「行きたい学校の学費を出せるようなお仕事が見つかるかわからないし、大学の学費はもっととても高いし、私にしごとが……で……できるとか……お……おもえないし……」


 お小遣いぐらいはアルバイトをしたいって言ったら「学費も自分で出しなさい」なんて、泳げるようになりたいから、近所のプールに行かせてくださいって言ったら、突然荒れ狂う冬の津軽海峡に連れてこられたみたいな気持ちだよ。どうしていいのかわからない。


「……日本は大学の学費を親が払うの? 自分でローンを組めないの?」

 万能ねぎを小口切りにしながらニワトコさんが尋ねる。


 私は首を横に振った。返せる保証がないと借りられないし、給付型の奨学金はもっとお金がないお家の子たちのためのものだ。


「……私くらいの年の子でも……たくさんお金がもらえるお仕事も……たぶん……ヒック……あるんだけど……怖いし、たぶん自営業だから……ビジネスできる人じゃないとムリだと思うし……きっと……ヒック……PDCAサイクルとかがまわらないし、そんなの私には……ムリだし……」


 PDCAサイクルまわしてビジネスする女子高生ってなにそれこわい、ていうか、いったいどんなビジネスを考えてるの、なんかめちゃくちゃ心配なんですけど。

 と、ニワトコさんが呟いているのが聞こえたような気がしたけれど、そのころには、もう、私は自分でも止められないくらいの激しさでしゃくりあげていた。

 本当は、一番悲しかったのは母さんの反応だったんだ。


 ちゃんと話そうと思ったのに。

 ちやんと説明してわかってもらいたかったのに。

 どうして聞いてくれないの。

 どうして、私が何をしてるか、じゃなくて、私が何を感じてるか、を見てくれないの。


 ――私の育て方がいけなかったのね。


 母さんの言葉が私の胸をグリグリえぐる。

 そんなことないよ。

 母さんの育て方は間違ってないし――私は失敗作じゃないよ。

 出来は悪いかもしれないけど、ヨタヨタしてるかもしれないけど、一生懸命歩こうとしてるんだよ。

 私の中の小さな子供が、悲しくて悲しくて、喉が枯れるくらい、泣いている。ヨタヨタ歩き始めたところで、手を離されてしまった不安感で喉元までいっぱいだ。


「学校に行けないのに、ちゃんとお仕事できるわけ……ないって……きっとみんな思うよ……きっと仕事も見つからないよ。わた……私……」

 そこまで言ったら、この前母さんと買い物に行ったときに言われたことを思い出して新たに涙が出てきた。

「私、二の腕が太いから…………!」


「に、二の腕って……」

 ユキノちゃん、どんだけ弱っちゃってるの……。

 ニワトコさんが、あきれたように言って、そっと左手を私の肩に乗せた。

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