第23話 カレーライス
「なんだ、おみやげないの」
タケシが口をとがらせた。
家に帰ると、母さんがいつもより早く帰宅していた。
ああ。
やっぱり心配していたんだ。
お腹がいっぱいだからお夕ご飯はあんまり食べれないよ、と言ったら、「やあねえ。何をそんなに買い食いしたの!」と笑っていた。
で。
タケシが拗ねた。
「ユッキばっかり、ずるい」
「タケシだって、試合の時とか、友達と出かけるときとか、お小遣いもらってるじゃん!」
言い返すと、だって、ユッキは……と、何か言いかけて口をつぐむ。
なんだろう、って思ってタケシの視線の先を見たら、母さんが怖い顔をしてタケシを睨んでいた。
「……ごめん。今度は何かお土産買ってくるね」
私はちょっと、タケシに申し訳ない気持ちになってしまう。
あんな睨まれたらかわいそうだ。
たぶん、ちょっと文句を言いたかっただけなのに。
「そうだ、今度、タケシも行こうよ! トラムに乗って、割れせんべいもおいしいよ! あとね、すがもんのおしりも撫でてこようよ」
「なにそれ」
タケシが下を向いたまま小さな笑い声をあげた。
「すごいの! 大きなおしりがあるの。それでみんな撫でるの。そうすると恋が叶うの」
「何それシュール」
タケシは小さい声で呟く。まだ、下を向いたまま。
「……そんなのあったかしらね? 巣鴨はよく連れてったのにな」
母さんが笑いながら言った。
「そうなの?」
タケシは首をかしげる。本当に記憶にないらしい。私は少しだけ覚えてるよ。一緒に行ったの。
「そりゃあそうよ。3歳ぐらいの男の子なんてね、電車に乗せとけば機嫌がいいし、面倒を見ていて、機嫌が悪くなると、じゃあ、都電を見に行こうって。で、見に行くと乗ることになって」
「そう?」
タケシはピンとこない様子だ。3歳だもんね。記憶にないよね。
「最近できたのかな? すがもんのおしり」
私はどちらかというと、すがもんのおしりが気になるよ。
そもそも誰があんなものを作ろうと思ったのか。
すごい発想力だよ。世界に誇れるよ!
ローマの、あれ、なんだっけ。変な顔のやつ。口に手をいれるやつ。
あれと同じくらいのインパクトだと思う。
「……よっぽど楽しかったのね」
カレーをよそいながら母さんが笑う。すごく機嫌がいい。私が無事に帰ってきて安心してるんだ。
「うん。本当に面白かったの。あと、やっぱり、ニワトコさんがね、日本で育ってないから、見るもの見るもの珍しいみたいで、ものすごくいろいろびっくりしてた」
「たとえば?」
「あんぱんが甘いことだとか……」
「あんぱんって、普通甘いわよねぇ……?」
あ。うん。そうなんだけどさ。
「いただきまーす!」
私たちの話を遮るように大声で挨拶をして、タケシが食べ始める。
育ち盛りだ。
タケシはいつ見てもお腹を空かせている。今日はカレーだからきっとすごい量食べそうだな。
坂井家のカレーにはいつもみじん切りにしたピーマンが入ってる。
今ではピーマン大好きな私が、食べれなかった小さな頃からのなごり。ちょっとだけ苦いけど私は好き。
それから福神漬けがいっぱい。今日は半分に切ったゆでたまごもついているから豪華バージョンだ。
私はお腹がまだいっぱいで、いつもの半分の量。
カレーを見ていたら、なんか、頬がほころんだ。
あー。なんか久しぶりだな。こんなふうに、家族でご飯を食べるのって。
ニコニコしながらカレーを口に運ぶ。
考えてみたら、本当にずっとずっとこんな風に家族で食事をしたことはなかったんだよ。
私にも笑いながら報告することがあって、タケシもいて、母さんもいて。
夕方の食卓を照らすペンダントライトがほんのりオレンジ色に温かい。
サラダのプチトマトがつやつやの赤だよ。
その時だった。
「本当、ユキノ、元気になったわねえ。去年、学校にいけなくなった時にはどうしようかって思ったけど……。この調子じゃあ、もうすぐ治るかな。会田先生に電話してもいいかもしれないわね」
母さんが言った。
「え?」
私は思わず聞き返した。
急に胸がぎゅーっとして、ものすごい勢いで食欲が消えていく。
「……治るって……学校にまた戻る、ってこと? 毎日?」
「そりゃあそうよ!」
母さんは明るく答える。
「あんなに待ってもらってるんだもの。会田先生だって喜ぶと思うわよ。この間お話に行った時も『クラスのみんながユキノさんを待ってるんですよ』って言ってくれたのよ」
「え。なにそれきもちわるい」
言葉は何も考えないうちに口から出た。
クラスのみんなが、ほとんど知りもしない私を待っているなんて、きもちわるい。そんなこと、誰かが折につけて私の話をクラスの前でしていなくちゃありえない。
学校のぬる温かい空気。
ものすごく遠くの方から聞こえてくるような気がする先生の声。
お題目みたいに言われる注意事項。
——その中に私の名前が組み込まれたんだ。
なにそれ。
待ってるわけないよ。
だって、私だったら待ったりしないよ。
「……応援してくれてるのよ。みんな。ね?」
母さんは私の顔を覗き込もうとする。
私は顔をそむける。
きもちわるい。
きもちわるい!
「ユッキが行くわけないじゃん」
そんな母さんの、顔を見もせずに、タケシが不機嫌な声で言った。
「ユッキは学校をサボってあっちこっち行ったりするほうが楽しいんだもん。行くわけないじゃん」
吐き捨てるみたいに言うだけ言ってカレーを食べ続ける。母さんの方も、私の方も、見ない。
私は不意をつかれて、ぽかんと口を開けた。
ぎゅっと固くなっていた体が、あんまりにもびっくりして、するっとゆるんだ。かわりになぜだか鼻の奥がツンとした。
母さんはタケシを見て、それから私を見た。
私はまだぽかんと口を開けたままだった……んじゃないかと思う。
タケシが私にかなり本気で腹を立てている。
突然私に向けられた強い感情に、私はとても驚いていた。
「そんなことないわよね。ユキノは時間が必要なだけなのよ」
母さんは慌てたように言った。
「今は考えられないかもしれないけど、せっかくあんないい学校に受かったんだもの」
「ユッキは嫌いだよ、あの学校」
タケシは母さんを睨んでた。ものすごく、イライラした口調だ。
「俺はどっちでもいいけど、なんだよって思うよ。いつもいつも母さんはイライラしてさ、ちょっとしたことで俺を睨んでくるしさ。ユッキも落ち込んでんのかなって思って心配してれば出かけたりして楽しそうだしさ」
家にいてもつまんないし、なんかばかみてー。
ごちそうさま。
ものすごい速さでカレーライスを食べ終えると、タケシは台所を出ていった。
あんなに怒っていても、ごちそうさまの挨拶は忘れなかった。
食べ終わった食器を流しに下げるのも。
タケシが、私に腹を立ててる。
考えてみれば当然だ。
私が学校に行けなくなってしまって、気持ち悪くなって、吐いちゃったりして、そんなふうになってからずっと、うちは私を中心に動いていた。私がそうしたかったわけじゃないけど。でも、そう。
全然気にしてないように見えてたけど。
全然気にしてないように見えるように頑張ってくれてたんだ。
「……大丈夫よ。ユキノだってここのところ目に見えて元気になってきたし」
席に座ってカレーライスを口に運びながら母さんが私に笑いかけた。引きつった笑顔だった。
「もう少ししていろいろ落ち着けば、タケシだってわかってくれるわ。あの子はいい子だもの」
でも。
「タケシ、あってるよ」
私は自分のスプーンを置くと、母さんの顔を見た。
心臓がものすごい、ばくばくする。
痛いくらい。
本当はまだ言うつもりはなかった。もう少し、色々考えてから、スズキ先生とももう何回かお話してからって、思ってた。
だけど、胸のどこかで、私はとても母さんにわかってもらいたかった。
今の学校に、行きさえすれば何もかもが解決する……みたいに、母さんが話すたび、私は困ってしまう。
胸がドキドキしてしまう。
心配させたいんじゃないの。
でも、あそこに帰れって言われると私は苦しいの。
他に大きな問題があるわけじゃないの。もうちょっとだけ。もうちょっとだけ、私が息ができる場所に行かせて。
「私、あの学校は好きじゃないの。——あそこにはもう行きたくないの」
「何を言ってるの?」
母さんが私の顔を見た。
「あのね、私、最近、いろいろ考えてたの」
私が説明をしようと、口を開けたのと、
「何を言ってるの?」
と、母さんがもう一度言ったのが同時だった。
私は、おずおずと、口を閉じてしまう。
母さんが、こんな風に話し始めると、私はもう、どうしていいのかわからなくなってしまう。
「あれだけ待ってくれてるのよ? この先ずっと学校に行かないでどうするつもりなの」
おねがい。
おねがいだから、もう少し、ゆっくり、話して。
そんなにイライラしないで。
「どうするつもりなの」
「あのね、——私にできるか、わからないんだけど」
私は、一生懸命、ゆっくり、ゆっくり口を開く。
ちゃんと、話して、ちゃんと、説明して、わかってもらわないと、ちゃんと。
ちゃんと。
「お仕事しながら、勉強したいの。アルバイトでも良いんだけれど、学校だけじゃなくて……」
色々、違う人とお話をしたり、少しずつ、色々なことをできるようになりたいの。
あの学校は、私にとってとても苦しい場所で、あそこにいると、全然先のこととか、考えられないの。
でも、母さんは私の話は聞いていなかった。
「私の育て方がいけなかったんだわ……」
母さんは私の方を見てもいなかった。
ただただ、ぎゅっと握りしめたテーブルの上の自分の拳を見つめてボロボロ涙をこぼしていた。
「……私が仕事をしているからって、子育ての手を抜いちゃいけないってずっと思ってたけど。あなたにはできるだけのことをしようって。でも、もっと厳しくしなくちゃいけなかったのかもしれない」
「……」
「タケシの言うとおりだわ。学校に行かないで、どっかほっつき歩くことはできて、それで、学校に行きたくない理由がバイトがしたいからって——私の育て方がいけなかったのね」
「そんなこと、ないよ!」
私はびっくりして大きな声を出した。
母さんが私のために色々頑張ってくれてきたのはわかってるんだよ。
でも、それとは違うの。
「——好きにしなさい」
母さんは突然立ち上がった。
「そんなに働いてみたいんだったらやってみればいいでしょう。学費も全部自分で出してみればいい。もう母さんは心配するのはやめる」
「……母さん!」
「だから、もう自由にすればいいって言ったでしょう」
おやすみなさい。
そう言って母さんは台所を出ていった。
私は何を言って良いのかわからないまま、一人の食卓でカレーライスのスプーンを握りしめていた。
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