第20話 セロリのお漬物

 真夜中。目が覚めてしまったら午前2時だった。


 家族を起こさないように、忍び足で台所に行く。流しの前で少し悩んで、三温糖はやめにして冷蔵庫を開けた。琺瑯ほうろうの容器の中に、この間、はりきって漬けたセロリが入っている。

 子供の頃のニワトコさんが苦手だったやつ。自分で選んだんじゃなくて、冷蔵庫に入ってる野菜から適当に選んだんだけど。

 しなっとなったセロリを2本取り出して、パン床を洗い流し、テーブルに座ったら、静かにドアが開いた。

「ユキノ、起きてたの」

 母さんがぬぼっと立っていた。

「あのね、なんか、目が覚めちゃったの。そしたらお腹空いて。母さん、どうしたの」

「お父さんがね、12時位に帰ってきたんだけど、それから寝付けなくって——なんなの、ユキノ、セロリ食べてるの」

「うん……」

「最近砂糖の減りが激しいなって思ってたんだけど……」

 母さんは探るようにこちらを見た。

「ジンジャーエールを作ったからかなあ」

 私は必死でとぼける。

 大丈夫!

 バレてない!

 私は女優!

「そうか……そうよね」

 母さんは頷くとあくびをした。

「……眠れないの?」

 私は心配になって尋ねる。

「色々怖いことを考えちゃうのよね。頭痛も始まっちゃって……明日も仕事があるのに」

 母さんはため息をつく。

 母さんは本当に心配症だ。どれだけ頭では「大丈夫」ってわかっていても、時々不安で不安でどうしようもなくなる。頭痛で眠れない時は大抵何かがとても不安な時。

 それを私は知ってる。父さんも知ってる。タケシも知ってる。

 多分、今不安になってるのは、私のこと。

 でも、父さんのことも、タケシのことも、自分のことも、心配しちゃうんだ。それが今、たまたま私なだけ。

 心配しなくて良いよ、って、どれだけ私が言っても母さんの心配は止まらない。

「薬を飲むから大丈夫。眠れるはず」

 母さんは笑うでもなく、そう言うと、薬の棚を開けた。頭痛薬の青い箱を取り出す。

「……」

「ユキノもセロリ食べたら早く寝なさい。学校に行ってないからって、生活リズムを乱しちゃダメよ」

「うん」

 明日は午前中に勉強を済ませて、午後から巣鴨に行くんだよ。初めての観光ガイドだよ。

 明日の私の大イベントを知っているはずなのに、母さんはまるで何もないように話をする。もしかしたら、明日、私がニワトコさんとでかけることで何か怖いことを考え始めちゃったのかな。

 水道の音。コップの水。白い錠剤。

「おやすみなさい」

「おやすみ。早く寝なさいね」

「うん」

 母さんが部屋に帰ってドアを閉めたあとも、私はしばらく台所のテーブルに座って、セロリのパン床漬けをぽりぽりかじった。

 お砂糖よりおいしいな、と思った。

 それからスマホを出して、いっぱい色々調べ始めた。

 なんとなく。

 なんとなく、ぼんやりと。

 行きたい方向が見えてきた……ような気がしている。




 今まで知らなかったけど。

 私は、ちゃんと、人とお話できる。初めて会う人とだって。緊張はするけど、お話できる。

 私は、ちゃんと、大切な人を大切にできる。

 私には、お友達を作ることだってできるし(たぶん)、母さんにとって可愛い髪型や服装じゃなくて、自分が着ていて嬉しくなる服装を自分で選ぶことだってできる(たぶん)。

 でも、今の私はまだまだ、歩くための筋肉がついていない。アトオイキの、歩き始めの、赤ちゃんみたいに、すぐに母さんの顔を伺ってしまう。でも、母さんは心配性だから、「そのまま歩いて行って大丈夫よ」とは言わない。

 言いたくても、言えないんだ。

 頭では私を手放さなくちゃって思っていても、心配して、心配して、下手したら、「歩かなくても大丈夫よ」って言っちゃいそう。「母さん、がんばって、ずっとユキノを運んであげる!」って。

 でも、母さんに運ばれている私はとても不幸だ。

 だから、つたい歩きができるところを探そう。

 同じ歳の子が、いっぱい集まって、みんな似ていて、みんなものすごいスピードで話しているところは、たぶん、まだ難しい。

 母さんの要求と、周りのみんなにとっての「ふつう」の間でどっちに歩いて良いのかわからなくなっちゃう。どんなに「いい学校」でも、私にはつらい。

 だから、もう少し、私が歩きやすいところを探そう。

 それから。

 アルバイトをしてもいいところ。

 本当にちょっとしたお金のせいで、母さんを嫌いにならなくてすむように。

 ——ここまで考えて、私の頭は止まってしまう。

 ……知らない大人の人に混ざって働くこととか……私に、できるんだろうか。

 できるんだろうか。




 トラムの駅に着くと、もうニワトコさんがそわそわ待っていた。

「ご、ごめんなさい」

 私は慌てて頭を下げた。出がけに水筒を持って行こうって思いついて、麦茶を水筒に入れたり、暑くなるかなってタオルハンカチを探したりしてたら待ち合わせ時間ギリギリになってしまった。

 遅れてないよ。

 遅れてないけど、時間ギリギリ。走ったからちょっと汗もかいちゃった。

「大丈夫。リリさんもまだだから」

 ニワトコさんは穏やかに笑った。あの後、巣鴨について検索したら赤いパンツの店の写真がいっぱい出てきてびっくりしたよ! なんて言っていた。

 おお。

 誤解は解けたのですね!

 よかった。

 ニワトコさんが、めくるめく大人の世界を期待していたらどうしようって思ってたよ。ご期待に添える自信ゼロだったよ!

「暑くなってきたね」

 ニワトコさんは駅のホームに立ったまま、扇子で顔を仰いだ。汗ダラダラだ。

「おなか、空かせてきましたか?」

 買い食いが楽しいから、お昼ご飯は軽くしておいてくださいね、って、昨日までに37回ぐらい確認した。

「ぺこぺこだよ」

ニワトコさんは情けなさそうな顔をして笑った。

 おお! なんと素晴らしい買い食いスタンバイOK な表情でしょうか!

「リリさん、遅いね」

「……先に出かけちゃおうか」

 ニワトコさんは、巣鴨がめくるめく大人のワンダーランドじゃないことを知ったせいか強気だ。 Go! Go! だ。

「うん」

 私はLINEでリリさんにメッセージを入れると、ちょっと緊張してつま先立ちをした。遠くの方からチンチンって、路面電車の音が近づいてきた。



「おおお?!」

 トラムに乗った直後からニワトコさんのテンションは、ものすごかった。

「うおおおお?」

 周囲の目が気になるせいか声をおしころしてるけど、大興奮だ。

 普段穏やかなニワトコさんがこんなに感動してるところなんて見たことないから、なんか、びっくりしちゃう。

「路面電車はイギリスにもあるけど、これはすごい! 家から近いんだねえ」

 私はよその国の路面電車を見たことがないから、そっちの方がよくわからないよ。

「あと、建物がね……。もうね。エキゾチックで……」

 ……普通の民家やアパートや小さめのビルだよ。ニワトコさん。おちついて。

 トラムに乗ってる人たちの目が生暖かいよ!

 前に座ってるおばあちゃんなんか、ニッコニコしちゃってるよ! 小さい子を見る目になってるよ!

「キワコさんちも、初めて入った時、どうしよう! って思ったんだよね。こんなにたくさん畳があるなんて! どこの道場だって。キワコさん、道場主かって……」

 キワコさん——が、道場主。

「あと、普通に家に紙のドアがあったからものすごくびっくりしたんだよね」

 紙のドア……。障子かな? ふすまかな?

「でも、こうやって見てると紙の窓がある家がいっぱいあって、そういう可愛い家のそばにトラムが走っていくんだなー。すごい」

 興奮するニワトコさんを「どうどうどう」って抑えながら、庚申塚の駅に降りる。ここから歩いて十分ぐらいで、とげぬき地蔵だ。

「おおお。乗った時も思ったけど、小さい駅だよねえ。かわいいよね」

 その時、ニワトコさんの電話が鳴った。

「あ、リリさん! ——え? 警察?」

 返事をしたニワトコさんの顔が緊張した。


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