第19話 美容院

「男の人と二人だけで出かけるの?」

 母さんは眉をひそめた。

「ううん。リリさんも来るの。三人で出かけるの」

 私はちょっと慌てて説明する。

「だって、そのリリさんっていう人もニワトコさん? の知り合いなんでしょう」

 母さんの顔はまだしかめられたまま。

「そうだけど、キワコさんの友達だって言ってた」

「そう。吉田さんの……」

 これは少し母さんを安心させたらしい。

「ニワトコさんは大丈夫だろうとは思うけど——吉田さんの知り合いみたいだし、小学校でボランティアするんだって、それなりに身元がしっかりしてなきゃだめなんだろうけど……」

 母さんは、考え事をしてるみたいで、半分自分に話しかけているみたいに見えた。

「キワコさんに聞いたら色々説明してくれると思うよ。ニワトコさん、大学生だよ」

「——大学はどうしたの」

「お母さんが亡くなって、しばらく落ち着くまで休学したんだって。お父さんが育った国を見てみたかったんだって」

「そう……それは大変ね。まだ若いのに……」

 かわいそうに、とお母さんは呟く。

「母親を亡くすって、そりゃあ辛いことだもの」

 母さんはおばあちゃんが大好きだった。

 おばあちゃんと母さんはとても仲が良い母娘だったし、今でも母さんはおばあちゃんのことをよく話す。

 小さい頃から父親のいない家で育ったおばあちゃんがとても苦労したこと。おじいちゃんとの結婚は望んだものではなかったけど、「あなたは好きな人と結婚させてあげたい」ってずっと言ってたってこと。一生懸命家庭を作るために頑張り続けてきたおばあちゃんだったってこと。

 家庭の中心で太陽みたいに輝く人だったって。

 最初に父さんを見たとき、「この人ならあなたを幸せにしてくれる」ってすぐにお墨付きをくれたのもおばあちゃんだったんだって。まだ父さんとお付き合いをする前だったって。気が早いよ、おばあちゃん!

 おばあちゃんは正しかったって、母さんは時々今でも言う。母さんね、何もかもおばあちゃんの言うとおりにして間違いはなかったの。

 だって、私は世界で一番素敵な人と結婚したんだもの。かわいそうね、ユキノ。あなたがどんなに頑張っても父さん以上に素敵な男性なんてこの世界にいないわよ!

 おお。

 素敵な父さんがいるのは嬉しいのだけど、ごめんなさい。いつかきっと出会う私の未来のだんなさん。

 まだ出会ってもいないのにすでに二番手認定されてます……。

「あのね、それで、私、髪を切りに行きたいの」

「あら、やっと髪の毛を切ってくれる気になったの?!」

 母さんは笑った。

 ずっと外に出たがらないから気になってたのよ。せっかく可愛く産んでやったのに台無しだって思ってたわ。

「この週末一緒に美容院に行きましょう」

「1000円カットでいいよ……。お金くれたら、一人で行ってくる」

「そんなこと言わないの。母さんも切りたかったからちょうどいいわ。予約を入れておくわね」

「本当、自分で行くよ」

「嫌な感じね。そんなこと言うんだったら、巣鴨に行くお小遣い、あげないわよ」

「え……」

 私は喜んで良いのか、困って良いのか、よくわからなくって口をパクパクしてしまう。お小遣い、くれるつもりだったんだ。

 行ってもいいってことだ!

 それから、どうしても引っかかってしまう。


 ——1000円ちょっと私が髪を切るためのお金を払って、私に2 000円ぐらいのお小遣いをくれるより、6000円美容院に払って、私に2 000円ぐらいのお小遣いをくれる方がいいんだ、母さんにとっては。


 でも、どうして?


「親心ってやつよ」

 と、母さんは言った。

「ユキノと出かけるのが楽しみだわ」






 線を引くのってむずかしい。

 おこづかいは、ほしかったもの。

 だからください、ってお願いして、もらえるって言われて、嬉しかった。だって、ニワトコさんにあんぱん買ってあげられるよ。キワコさんにお土産も買えるよ。

 髪の毛も。切りたかった。

 でも、あんまりお金は使ってほしくなかった。美容院で美容師さんとたくさんお話をするのも、あまり得意じゃない。近くの安いカットでちゃっと終わらせたかったの。

 なんで、私はこんなにもやもやしてるんだろう。

 お小遣いも、もらえたのに。髪の毛も、切れるのに。

 ちゃんとした美容院で、多分、とってもとっても可愛くカットしてくれるだろう。

 なんで私は「ちゃんと線が引けなかった」って思っちゃってるんだろう。なんでこんなにうちのめされちゃってるんだろう。


 ——本当に気づかないのか。


 脳内ホームズがため息をついた。


 ——君の母親が「力」でねじ伏せたからに決まってるじゃないか。君の理由を聞くんじゃなくて、本当に必要としている巣鴨行きのお小遣いをカタに脅したんだろう。そりゃあ、いやだろうよ。



 母さんの連れて行きたい美容院に行かないんだったら、巣鴨にいくためのお小遣いはあげません。

 あなたは必要ないって言っているけれど、必要だと思うことを、あなたがしないのなら、あなたが欲しいと思っていて必要だと感じているものも、あげません。


 ——人間はね、理由もなく束縛されたり、ねじ伏せられたりするのが嫌いな生き物なんだよ。


 脳内ホームズは眠そうだった。


 ——どんなにささいなことでもね。健康な自尊心を持って育った人間だったら、それは自然な感情だ。何度も続けば相手のことを少しずつ嫌いになっていく。ほんの少し、かもしれないけどね。君が考えなくてはいけないのは、それで、どうするか、だよ。


 こんなにささいなことなのに。

 母さんは私のためを思って言ってるのに。私だって可愛くなれたら嬉しいのに。そもそも私の住むところも食べ物も、すべてのお金は父さんと母さんから来てるのに。文句を言うのなんて全然筋違いなのに。こうやって考えている今だって、自分があんまりにもワガママに感じられて、すごくいやなのに。


 ——文句を言うのが筋違いだから困ってるんだろう、君は。


 脳内ホームズはつまらなそうに言った。


 ——誰が見てもひどいことをされているんだったら抵抗のしようもあるだろうけれど、これでは言い返すこともできない。だからいやなんだろう。さっきも言った通りだ。自分勝手だろうが、当然だろうが、君の感情は勝手に動く。君が考えなくてはならないのは、それで、どうするか、だよ。





 出かける前の服を選んでいるときに、何度か駄目出しが出て、最初からヨタヨタ始まったけれど、美容院にはあらかじめネットからプリントアウトした写真を持って行った。母さんは、びっくりしていた。いつもだったら何も言えなくて、母さんにカットの説明をお願いするから。でも、出来上がりは可愛くて、母さんもそこそこ満足そうだった。

 私はとっても満足だった。

 とても短いボブで、昔のフランス映画みたいだよ。襟足がスースーするよ。

「ユキノ、やっぱりちゃんとした美容院にいくと良いわねえ。すっごく可愛くなった」

 褒められて、私も嬉しい。

 美容院の鏡の中にいた私は見たことのない私だった。

 うふふ。

「1000円カットじゃ、そんなの無理よ。その服の組み合わせは、ちょっとあれだけど、ユキノもおしゃれに興味が出てきたのね」

 ……。

「母さんね、最近ユキノが元気になってくれて本当に嬉しい」

 美容院の帰り、商店街は賑やかだ。

 私はぼんやりとお店の飾りを見ながら歩く。

「巣鴨に行くのとかもね、多分、それどころじゃないでしょって言う親もいるんだろうけど……。母さんは、良いことだと思う。家の中にずっといるのはよくないと思うわ」

「うん……」

「吉田さんの所でお昼ご飯食べるから、もうお昼ご飯作らなくていいなんて言われた時はどうしようと思ったけど……あなたには良いことだったのね」

「うん」

 私は頷く。うん。そうだよ。本当に、そうだよ。

「あなたは本当に大人に可愛がられる子よね。学校にもね、先生にもね」

 母さんの声は少し湿っぽくなった。

「本当に感謝してるの。こんなに理解してくれて……こんなに気長に待ってくれる学校なんて、本当に、ないわよ」


 本当にいい学校に入っていて、良かったと思うわ、と、母さんは言った。

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