第10話 三温糖
「はい、これはユキノの」
夕食のあと、母さんに手渡されたものを見て、私は思わずまばたきをする。
パウダーピンクのスマホと、新刊の小説が2冊。
「え……わたしの、スマホ?」
「そうよ。色は勝手に決めちゃったけれど、いいかしら?」
え。
え?
私の沈黙を感動だと思ったのか、母さんはニコニコ続ける。
「タケシにも散々言われたし、あなたも持っててもいいかなって思って」
「そう……」
「……嬉しくないの?」
突然母さんの顔が真剣になった。
——だって。
中学生の時に、何度も頼んだのに。
あのころ——学校はあまり、っていうか、少しも、っていうか、本当に全然楽しくはなかったけれど、まだ、話をする相手がそれなりにいた。友達と、LINEの交換もしていたあの頃、何度頼んでも買ってもらえなかったのに。
誰とLINEをしていいのかさえわからないような今になって、こんな簡単にスマホが手に入る、ということが、なんだかとても信じられなかったし——胸のどこかがぎゅうぎゅうする。
私が頼んでもダメだったのに、タケシならいいの?
「家族の連絡先はもう入れてあるのよ」
母さんは上機嫌だった。
「あなたのLINEもそっちに変えておいたわ。母さんも新しくアカウント作ったから入れてある」
私はうまく答えられずに、ありがと、とボソッと言った。それから渡された小説を見る。2冊とも先週ネットで検索したものだった。
「……ネットの履歴、見たの? 母さん」
「そうなのよー」
悪びれずに母さんは言った。
「あなたの勉強の支度をしてる時にね、どこまで進んだかなーって調べてたら目に入って」
「……」
コンピューターは共有だ。父さんは自分のを持っているけれど。
共有のコンピューターなんだから見られて嫌なものをそのままにしておいてはいけない、というのはわかる。わかるけど。
わかるけど!
履歴を見て、開けて、私が見ていたサイトだって、わかっていて——それでも母さんはそのサイトを読んで、多分、「有害な小説でない」と判断して——題名を、メモしたんだ。
「どうしたの。嬉しくないの?」
母さんがまた聞いた。
「……履歴を見られるのは嫌だよ」
やっとのことで、喉から絞り出す。
「ごめんなさいねー。目に入っちゃったのよ」
母さんはニコニコしている。道端で誰かにちょっと軽くぶつかった時みたい。母さんにとってはそのくらい「ささいなこと」。
でも私の心の中では大嵐が全力で北上してるよ! ドSな俺様若社長がドジっ子女子高生に首ったけになる小説を母親に手渡されるなんて、心中ゲリラ豪雨だよ。ハリケーンだよ。台風105号だよ! 番号は適当だけど。
「……」
「でも、おかげでユキノが欲しかった本が買えたと思うんだけど? ……欲しくなかったの? その本」
私はゆっくりと首を振る。
確かに欲しかった本だ。私のお小遣いでは買えないなってずっとためらってた本。だから手にできるのは嬉しい。
「うん。……欲しかった本だけど……」
「それじゃあ、そんな顔しないの!」
母さんはにこっと笑って席を立つと、ぽん、と私の背中をたたいた。
その後、首を左右にコキコキ動かして軽く伸びをする。
「……疲れてるの?」
「すごく忙しかったの。肩がこっちゃったわー。今日はゆっくりお風呂に入る。お皿洗っておいてもらえるかな?」
「あ……うん」
私は立ち上がる。
何か、うまく言葉にできないモヤモヤしたものが胸の中にぐるぐる回っていて、それがなんなのか、よくわからなかった。
台風105号は、まだまだ胸の中で荒れ狂っていた。
呼吸の仕方を忘れることがある。
パニック障害とか、そういうのではなくて。単純に、「あれ? 息ってどんな風にするんだろう」ってなる。息を吸い込んだり吐いたりするのが面倒っていうか。
よく「息をするように自然に」とかいうけれど、息をするって全然自然なことじゃないと思う。
私は自分の部屋のベッドの上で「自然な呼吸の仕方」について考察していた。
「なんか、やたらため息ついてるね」って、あの後、タケシに言われたんだけれど、別に悩み事があるわけでもないし、何か変わったことがあったわけでもない。ただ、息をするのがやたらと面倒だ。
ふーっ。
唇を尖らせて息を吐く。
で。
吸うのがなんか面倒くさい。でも、息を吸わないと苦しい。
吸って。吐いて。吸って。吸って。吐いて。
私はきっと、いざという時にラマーズ法の習得がものすごく早いに違いない。真夜中に一人でこんなに呼吸法に熱中している女子高校生なんて絶対日本で私だけだ。
でも、履歴書の特技欄には書けないだろうな。
坂井ゆきの。16歳。
特技。 ラマーズ呼吸法。
ないな。これはダメだ。なしなし!
時計を見たら午前二時だった。
家はしっとりと静まり返っている。私は音を立てないようにそっと台所に行く。本当に最低限の灯りをつける。
マグカップを取り出して、三温糖をその中に入れる。大さじで4杯。スプーンを持って部屋へ帰る。蛍光灯の光が真っ白でまぶしい。
ひとりぼっちの部屋で、パジャマの上から父さんのお古の男物のスウェットを着て、スプーンで少しずつ砂糖を口に運んでいたら、突然涙が出てきた。
ぽろぽろぽろぽろ。
母さんは私のことが大好きで、私のことを心配していて、私のためにいろいろ頑張ってくれて、疲れていてもご飯を作ってくれて、自分のことを犠牲にしてでも私のことを考えてくれていて、自分の靴は後回しで私の服を買ってくれて、私は母さんの宝物で、誇りで、世界で一番大切なもので
——そして、私は母さんが嫌いだった。
私の体を「太っている」とか「みっともない」って言われるのが嫌だった。好きな服を絶対に買ってもらえないのも嫌だった。私の好きなものを下品だと言われるのが苦しかった。ラインのやりとりやコンピューターの閲覧記録を全部チェックされるのも嫌だった。小さい頃からどんな友達と遊ぶのかに口出しをされるのが嫌だった。食べ物をすべて管理されるのが嫌だった。同年齢の子供たちと比べてとても少ないお小遣いを渡すことで私が欲しいものを把握しようとするのが嫌だった。
嫌なことを嫌だと言っても絶対に聞いてくれない。私を自分の人形のように扱う母さんのことが嫌い。
一度言葉になってしまうと、感情はもう、残酷なくらいに明らかだった。
私はこんなに、とてもたくさん愛されていて、けれど、母さんがくれる愛情の中に私は自分をみつけることができない。母さんが好きな私は、私という一人の人間ではなくて、母さんの延長の——なにか。
そして、それなのに、私は母さんが大好きだった。大好きで、愛されたくて、愛したくて、だけど、それなのに、息をするのも苦しい。
私はとてつもなく混乱していた。
怒っていて、おびえていて、醜くて、そして何よりも、悲しかった。喉がヒリヒリするほど、声を押し殺して泣きながら、私は三温糖を食べた。
きっと、今、どこかの誰かになぜ泣いているのか聞かれたら、私は「心の奥に隠していた推しが母さんにばれたから」って言うと思う。考えれば考えるほど、あんまりにも間抜けで、ポロポロ泣きながら心の中で自分に盛大にツッコミを入れた。
私は、みっともなくて、なさけなくて、愚かで、とても悪い子供だった。
どんなに頑張っても私は良い子供になることができない。
うわ〜ん。
声を出して泣きたい日本語だ。
悲しい。
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