第11話 ジンジャーエール
6月に入ったと思ったら、とたんに毎日雨ばかりで、気が滅入る。
私は泣きはらした次の日のぱんぱんの顔でキワコさんの家を訪ねた。
「あれ、どうしたの」
ニワトコさんが、すぐに気づいて目を見張った。
「自己嫌悪……」
私はぽそっと返事をする。うまく言葉が見つからない。
「えっ、それって……」
ニワトコさんがとても深刻な顔になった。
「それって……どういう意味?」
「え……」
「や、あの、言葉の意味がわかんない……」
——
意外な単語が守備範囲外なんだな、ニワトコさん。
「自分で自分のことが、キライになるの。どうして私ってこんななんだろう……って思うの。ずーっとそんなことばかりぐるぐる考えちゃうの」
考えながら説明すると、「Oh...」とニワトコさんは外国人みたいな声を出した。外国人だけど。
「それは……あれだな。人類が進歩するやつだな」
「進歩……」
私はきょとんとしてしまう。
進歩……
するんだろうか。
「自分の悪いところが見えるのだから進歩するだろう」
うんうん、とニワトコさんは頷きながら台所の隅のダンボール箱から生姜を出してきた。
「もう一度言ってもらえる? ジコケーニョ……?」
なんだかスペイン語か何かみたいだ。
私はできるだけゆっくり発音してみせた。
「じ・こ・け・ん・お」
「おお。じこけんお」
新しい言葉に出会ったニワトコさんはどことなく嬉しそうで、でも、真剣な顔で繰り返す。
「そうか。うん。じこけんお……意味はともかく、響きは悪くないよね。たとえば——『ラスベガスで自己嫌悪』!」
ニワトコさん! それは唐突です。
……なぜにラスベガス?
「なんか映画の題名になりそうじゃない。『いつかあなたとじこけんお』」
……そうだろうか。
私は首をひねる。
「『ある晴れた日に自己嫌悪』とか……」
「『愛とかなしみのじこけんお』とか……」
言われてみると、確かに妙にリズムはよかった。
——五文字だからだ!
でも、そんな映画見たくないよ、ニワトコさん。登場人物がみんなで一緒に自己嫌悪してたり、晴れた空の下で自己嫌悪してる映画なんて、うっとおしいことこの上ないよ。
「じこけんおの世界は果てしないな」
ニワトコさんが結論づける。
そうか。果てしないのか。そんな気はしてたけど。めちゃくちゃ嫌だなあ。
「そうして人類は進歩する」
何か納得したようにニワトコさんは一人で頷いた。私は全然自分が進歩するようには思えなかったけれど、まあ、とりあえず、曖昧に頷いてみた。こんな泣きはらしたぶすな顔で、少しも進歩がないって言われたらやっぱりそれも悲しいし。
「今日はね、本格的にジンジャーエールの仕込みを始めようと思って」
ニワトコさんがニコニコする。
「ジンジャーエール? 買ってくるのじゃなくて」
「発酵させるの」
「炭酸水で割るんじゃなくて?」
「発酵させるんだってば」
はい、とニワトコさんは私に生姜を手渡した。
「綺麗に洗ってあるから皮ごとグレートしてくれる?」
「皮ごと」
「皮にイーストとか、発酵させる菌がついてるんだよね。だからオーガニックの生姜がベストだね。殺菌処理しちゃってるのだと発酵しないし」
ふーん。と、私は頷く。それから気づく。
あ、これ、自分で作れるんだったら家で炭酸飲料飲めるんじゃん。母さん、有機野菜買ってるし。
「ユキノちゃんはさ」
ニワトコさんは全く何気ない様子で言う。
「とりあえず、自分で自分のご飯を作れるようになるといいよ」
ぎく。なぜかわからないけれど、とてもびくっとした。
「そうかな……」
ちらりとニワトコさんの顔を伺ったけれど、ニワトコさんは私の方は見ていなかった。古ぼけた茶色いノートを開けて、レシピを確認している。
「うん」
しごく真面目な顔でニワトコさんは砂糖を計る。
「自分の体の中に入ってくるものを、自分で選べるって、とても良いことだよ」
60グラム! と小さな声で言うと、ニワトコさんはパタンとノートを閉じる。
「20グラムか30グラムぐらいの生姜と、60グラムぐらいの砂糖。それに水が1リットル。ユキノちゃん、半分持ってくでしょ。今日は倍量作るね」
「え……いいんですか?」
「これでできるのはスターターだからね。二、三日たって、ぷくぷく言い始めたらこれを元にしてジンジャーエールを作るんだよ。多分これで四リットルぐらいできるかな」
「へえええ」
ジャムの空瓶に分けてもらったジンジャーエールの素を、私はしみじみと眺める。透明な水の中にお日様色のすりおろし生姜が踊っている。
「家に帰ったら、蓋を外して布巾をかけてね。発酵するとガスが出てくるから、ガスの逃げ場をつくってあげないと爆発するよ」
ニワトコさんはそう言ってから、ちょっと困った顔をした。
「残りの作り方も教えてあげたいけど、俺、ひらがなしか書けないからさ——二日ぐらいして、腐らないでちゃんとぷくぷく言い始めたら、次どうするのか、教えてあげる」
カウンセラーのスズキ先生は、私が一人で部屋に入っていくと、ちょっと驚いたような顔をした。
「母は、三十分したらこちらに来ることになっています」と、私は言う。
ちょっと硬い声だったかもしれない。カウンセリング室に入る前に、ずいぶん母さんとやりあったから。
母さんは、最初に私と部屋に入って先生に挨拶したかった。
私は、一人で部屋に入りたかった。最初から、自分一人で気持ちを整えて、まっさらな状態で、先生と話がしたかったんだ。放っておくと母さんが先に私の状態を報告しちゃうから。
「どうぞ。座ってください」
スズキ先生は落ち着いた声で返す。
私は頷く。それから深呼吸をした。
「スズキ先生は——ここで私が言うことを、母さんには、伝えませんよね?」
「——ユキノさんの身に深刻な危険がある場合でなければ、ユキノさんの合意がない限り」
スズキ先生は目をそらさない。
うん。
守秘義務ってやつだよね。
プロだよね。
——信じていいよね?
私はもう一回大きく息を吸ってから、手元にあるメモを見ながら話し始めた。
「学校にいく以外に、どんな可能性があるのか、調べたいです。高校に行かずに大学に行くにはどんな方法があって、どのくらいお金がかかるのか。ただ、母が心配します。できたら、母にはまだ、そういった可能性を考えていることを知らせたくありません。頭を整理するために、相談できる相手も欲しいです。母には相談できません。先週の夜、気づいてしまったことがあって——とても混乱しています。どこから手をつけていいのか、わかりません」
一気に言い終えると、心臓が、痛いくらいドキドキしているのがわかる。でも、これが、今の私が出せる精一杯のSOSだ。
色々混乱している時に、自分一人で物事を進めるのは良くない。いつもだったら母さんに相談する。でも、今、私は母さんに相談することができない。
私が口をつぐむと、スズキ先生は、少し黙って、それからいくつか質問した。
なぜ、学校をやめることを選択肢に入れたいのか。
私は母についてどう思っているのか。
ひとつひとつ、答えていくうちに、見えてきたものがあった。
母さんは、私と母さんの間に区切りがないと思っている。
だから、寝起きの自分を鏡で見て「太ったなー」って思う時のように、私の体を見て「太ってきたわね」って言う。
私のつらさを自分のことのように感じているから、私が泣きたい時には自分も泣きたい。だから、自分を励ますように、「さ、もう暗い顔はやめなさい」って言う。
私が欲しいものを私が頼む前に持ってきてくれようとする。
自分が私のために「やってあげたいこと」と私が「やってほしいこと」に違いがあると思っていない。
私には私だけの、誰にも知られたくない小さな秘密があるって、ちっとも思っていない。わざわざ私の机の引き出しを開けたりはしないけれど、目につくところに私宛の手紙があったら、多分軽く目を通すことに罪悪感はないだろう。
コンピュータのブラウザの履歴から、私が見ていたサイトをちょっと見てみることに罪悪感がないように。
母さんの心のなかでは私は多分、まだ5歳位の小さな女の子だ。
かけっこで転んだら膝を抱えて泣き出すくらいの。
とてもとても小さい頃、私と母さんは一つだった。
母さんが綺麗な花を見て「綺麗ね」と言ってくれたとき、言葉を覚え始めたばかりの私はきっと、生まれて初めて花が綺麗だってことを知ったんだ。
世界がどんなに綺麗なものか、最初に教えてくれたのは母さんだった。そして、それからずっと、私は母さんが見るように世界を見てきた。
母さんが好きなものは私も好きで、母さんが嫌いなものは私も嫌いだった。
だけど、もう、母さんと私は、一つではない。
母さんの目に綺麗に見えないものが、今の私の目にはとてもキラキラして見える。
母さんの目には下品で低俗で、でもそれなのに、私にはとても大切な、キラキラしたものを、確かに私は見つけてしまった。
私は心のどこかで、とてもとても母さんから離れたくて、母さんから離れた、違う生き物になりたくて、でも、母さんは疑いもなく私との間に線がないと思っている。それで私の胸がヒリヒリしている。
母さんの信じることを同じように信じられない自分はとても悪い人間じゃないかって、なんて恩知らずなんだろうって、そう思って足がすくんでいる。今でも、こうやって話しているだけで私の体はガタガタ震えて止まらない。
「どうぞ」
説明している私の手に、スズキ先生がティッシュの箱をくれた。涙と鼻水でグジャグジャの顔になっていた私は、ありがたく箱を抱きしめた。でも、箱の中のティッシュは、ほとんど残っていない。
この部屋、1日に何箱ぐらいティッシュを使うんだろう。
何人ぐらいの人がここに来るんだろう。
みんな泣くんだろうか。
「大人になっていく時に、ユキノさんがお母さんの嫌いなところを見つけても、それは悪いことではないんですよ」
むしろ、自然なことなんですよ。
スズキ先生は静かに言う。でも、私は首を横に振る。
そんなの、わかってる。みんなそんな感じのことを言う。
違う。違う。
私は母さんを好きでいられないことが悲しいんだ。私が、悲しいんだ。
「ユキノちゃん。一つ聞いていいですか?」
スズキ先生が私の顔を見た。
「この一ヶ月、どんな気持ちでしたか?」
私は少し考える。
「楽しい日も、辛い日もあって……でも」
「でも?」
「ガラスの球体の中にひとりぼっちでいるみたいな気持ちでした。私からはみんなが見えるし、みんなは気づいていないんだけど、私のまわりにだけ目に見えない壁があるの。しゃべっても、しゃべっても、誰にも届かないの」
「そう……」
スズキ先生は空っぽになったティッシュの箱を私の手からとりあげて、次の箱を渡してくれた。
「それはいつも、そうだったの? それとも時々?」
私は、少し考える。
「1日のうち、ほとんど。でも、ネコばあさんのおうち——キワコさんのお家にいる時は、そうならない……です」
「それでは」
スズキ先生は淡々と言う。
「そこはユキノさんにとって良い場所なのね」
「はい」
と、私は言った。
「はい……!」
そう言ったら、また、私の両目からは涙が大量にぽろぽろこぼれてきた。
今年の夏、水不足になりそうだったら、ぜひ、ワタクシメに声をかけてください、と、私は思った。
——そうして、人類は進歩する。
なぜだか突然ニワトコさんの声が頭のなかに響いた。
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