第12話 ジンジャーエール 2
カウンセリング室を出て行く時、すれ違った母さんは私を見て、ぎょっとした顔をした。多分目が真っ赤だったからだ。でも、私はきっと、今までよりずっと晴れ晴れした顔で笑えたんじゃないかと思う。
——母さん、あまり心配していないといいな。
母さんからもらったコーヒー代をポケットに入れて、私はそのままドトールの横の本屋に入った。本よりも文房具や雑誌の方が多いような店だ。私はそこで、一番安いUSBメモリを買った。
それからドトールに入って、紙ナプキンに思いつくことをかたっぱしから書き始めた。泣きたいだけ泣いたせいで、喉の奥はまだ痛かったけれど、妙に穏やかな気持ちになっている。
線をひこう。
ニワトコさんと会って、話して、スズキ先生と会って、話したことで、なんだか世界は突然見通しが良くなっていた。
母さんと私の間に線を引こう。
どうやって引けば良いのかはまだわからない。
学校のことだとか、将来のことだとか、考えなければならないことは山のようにあって、今まであまり自分で色々選ぶことをしてこなかった私には、とても難しいけれど、これだけはわかった。
私は母さんと、違う私にならなくてはならない。
でも、何から始めれば良いんだろう。
——そうだ! ジンジャーエールだ! やっぱり。
手始めに! 母さんが! 絶対に買ってくれない! 炭酸飲料を! 自作しよう!
何だかわからないけど、それが一番今すべき事のような気がした。
めちゃくちゃ小さいステップだけど——。
——何をしていいのかわからないときには、まずできることから手をつけるのがセオリーだ。基本だよ、ワトソンくん。
私の脳内でホームズが解説してくれた。
——そうかあ!
私はとっても簡単に脳内ホームズに説得された。さすが名探偵。ジンジャーエール、飲みたかったし。
部屋の出窓に置いておいたジンジャーエールの
「それじゃあ、お砂糖を小さじ1杯位入れてかき混ぜて」
「はい!」
今日の私はやたらめったらテンションが高かった。
そんな私をちょっとばかり面白そうに見て、ニワトコさんはお鍋に水を2リットル測って入れた。
「うちのはこんなによく発酵してないんだよね。ユキノちゃん、ちゃんと日当たりの良い場所に置いておいたんだね」
私はコクコク頷く。
すごく悩んで、家族がいない間は一番日が当たるリビングに、みんなが帰ってくる前には西日が当たる自分の部屋の出窓に移したのだ。
雨続きで、カビないかすごく心配だったから、結構動かしちゃった。
とてもよく面倒を見たと思う。おかげで、私のジンジャーエールの素には小さな泡がキラキラぷくぷくしてるよ。
「それじゃあね、これが沸く前に、そこの生姜をグレートしてくれる?」
10センチぐらいだろうか。かなりの量の生姜があった。
おお、これがジンジャーエールのジンジャーの部分ですね。エールは何なんだろう。そういえば。後で英和辞典をひこう。
集中して生姜をすっている私を台所の端の方からテスが眺めている。
「みゃーお」
目が合うと、優雅な足取りでやってきた。
うわーん。すごい撫でたいけど、私は今生姜と格闘しているのですよ。テスお嬢さま。
「猫って生姜食べるのかなー」
「猫次第かな。ちょっとなら大丈夫だろうけど」
ニワトコさんは私がすりおろした生姜を沸騰した鍋に入れると、火を弱めた。
「三十分ぐらいコトコトしなくちゃいけないから、タイマーをかけて、ちょっとお茶にしよう!」
おいで、とニワトコさんはテスを抱き上げた。
あ。私が抱っこしたかったのに!
気持ちよさそうに、ニワトコさんの腕の中で目を細めたテスが、私の方をちらっと見て、ふわあん、とあくびをした。
「ジンジャーエールってね、昔はお腹の調子が悪い時とか、風邪気味の時に、薬の代わりに飲んだんだって」
コポコポと、ニワトコさんはコップにジンジャーエールを注いでくれた。
「これは先週試しに少しだけ作ってみたもの。今回の方がレモンを少し増やそうと思ってるんだ。酸味がもう少しあったほうが美味しいと思う」
「お腹が悪くて、ジンジャーエール?」
私はおもわず聞き返してしまう。それから妙に納得する。
そっか。
生姜湯を冷ましたものに、レモン汁と、それからなんか乳酸菌とか菌がいっぱい入っているんだものね。
家で作るジンジャーエールとお店で買うジンジャーエールは全然別のものなのかもしれない。
「飲んでみて。ちょっと辛いかもしれないけど」
「あ……はい」
うながされてコップに手を添えると、
「あー!」
と、ニワトコさんが大きな声を出した。
「えっえっ、な、なんですか?!」
「ミント忘れた!」
ちょっと待っててね。
そう言うとニワトコさんはテスを優しく床の上に下ろす。それから出窓からミントを摘んでさっと洗う。
「つぶして飲むと美味しいよ」
「び、びっくりしました……」
急に大声出すんだもの。
ニワトコさんの膝から追い出されたテスは不満げにニャーニャー言う。よほど居心地がよかったんだな。
ごめんごめん、と謝って抱き上げながらニワトコさんは説明してくれた。
「コヴンで出そうと思ってね。結構たくさん作っているところ」
おお。古文。じゃなくて、コヴン。魔女集会。
「魔女とジンジャーエール」
「ぷくぷく泡が出るところが魔女っぽいでしょ」
そんなこと言ったらコカ・コーラだって魔女っぽいよね。ぷくぷくいうし。黒いし。
そう思ったけど、ニワトコさんがやたら嬉しそうだったので口にするのはやめた。
「食べ物ってさ、生きているものからできているんだよね。当然なんだけど」
ニワトコさんは膝の上の白猫を優しく撫でた。
「ジンジャーエールだって、たくさんの小さな生き物が発酵させてできるんだよ」
言われた通り、スプーンで軽くミントを潰してくるくるかき混ぜる。
それから、ぱちぱち弾けるジンジャーエールのコップを口につける。ニワトコさんは嬉しそうに見ている。おおう。そのキラキラした視線は! ——自信作なのですね!
「あ」
「……おいしい?」
「美味しいっていうか……ものすごく、あざやか、です」
辛いくらいに鮮烈な生姜の味が、すーっと喉元を駆け抜けていく。それからレモン。ミント。
明るい若草色の水彩絵の具を、たくさん水を含ませた筆ですくって、真っ白な画用紙の上に、しゅって線を描いたみたいな味。
「あんまり甘くない」
「お砂糖は、発酵するのに使うからね」
ニワトコさんは頷く。
「もっと甘いほうがよかったら砂糖やハチミツを多めに入れてもいいけど……アルコールができちゃっても良くないしさ」
あ、アルコールになるまで発酵することもあるんですか?
「ふつうはない」
と、ニワトコさんは真面目な顔で答えた。
お鍋で生姜を煮込んで、しっかり生姜の味が出たら、ザルで漉して砂糖を入れて、レモン汁をレモン2個分入れる。それから水を足して、しっかり冷めたところでスターターを加える。熱すぎると菌が死んじゃうから温度は大切。瓶に入れて発酵させる。発酵が悪かったら薄切りの生姜を数切れ加える。発酵させるには、炭酸水のペットボトルが便利。
帰り道、レモン色の傘をさして、ペットボトルに入れてもらったジンジャーエールを大切に抱えて、私はなんどもなんども、小さなメモ帳に書いたレシピを読み返した。これさえあれば、私はいつでもジンジャーエールが飲める。
私が初めて使う魔法のレシピだった。
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