第2話 ズッキーニのお好み焼き
ネコばあさんの家は、古い。
古いって言っても第二次世界大戦の後に建てられたんだろうとは思う。このあたりは一帯空襲で丸焼けになったって言うから。
看板は白塗りにされているけど、昔「吉田たばこ屋」って書いてあったのがうっすら浮かんで見える。壁は茶色のトタン張りだ。昔店先だったところは引き戸が閉められていて、壁に自動販売機が並んでいた。
ネコばあさんの家を通り過ぎると公園があり、そのまま真っ直ぐ行くと図書館がある。いつもは通り過ぎるのだけれど、今日は、タケシの言ったことが頭のなかにあって、いつもよりゆっくり前をとおりすぎた。
そしたら。
そしたら、気づいちゃった。
玄関の引き戸に大きな張り紙がしてある。
大きな白い模造紙。
それに、習字の先生が使う朱色の墨みたいな色で何やら書いてある。
なんだろうと近づいて見ると小学生みたいな下手くそな字で
「まじょ はじめました」。
そしてその下に癖のある英字で
”We now have a witch!"
私は呆れてまばたきをした。
一体なんでタバコ屋さんに魔女が来たなんて話になってるんだろうって、ちょっと不思議に思ってたんだけど、こんな風に堂々と書いてあるのかー。
そりゃあ、噂にもなるだろう。
「まじょ はじめました……」
冷やし中華はじめました、みたいなノリだ。魔女は季節の風物詩です、みたいな感じ。
それとも、普通に吉田のお婆ちゃんが始めたんだろうか。
もう70歳を過ぎてると思うんだけど、だとしたら随分遅いキャリアチェンジだ。
そりゃあヘンゼルとグレーテルの魔女も相当お年寄りだし、確かに魔女ってお婆さんのようなイメージがあるけど、まさかあの人達だってそんな高齢になってから魔女になったわけでもないだろう。
なかなか思い切ったことをするなあ、ネコばあさん。
そんなことを私はほんの一瞬何もかも忘れて考えてしまった。
このお弁当をどこに捨てよう、だとか。
できるだけ他人に見られないうちに家に帰ってこよう、だとか。
色々考えていたことが、そういうわけでほんの一瞬だけ私の頭からきれいにとんだ。
「まじょ はじめました」
あまりのインパクトに思わずもう一度小声で読んでしまう。私的には本日の「声に出して読みたい日本語ナンバーワン」だ。
と。
引き戸がガラガラっと開いて、ひょろっとした背の高い若い男性が顔を出した。大学生ぐらいだろうか。とぼけた顔立ちの人だ。
「あ……」
私はびっくりして目をパチパチさせた。おばあちゃんじゃない。息子さんでもない。
男の人もちょっとびっくりしたようで目をパチパチさせながら不思議な笑顔を浮かべた。
「マジョに御用ですか? それともキワコさんに?」
男の人の声はとても静かで、ほんの少しだけ、どこのものだかわからないような訛りがあった。
「あなたは?」
「ニワトコ=スティーブン。マジョです。昨日からキワコさんの家にお世話になっています」
怪しい。
目の前の、どこから見ても男性が、魔女だと自己紹介したこと。
どう見ても日本人なのにスティーブンとか、ニワトコだとか、不思議な名前を名乗ったこと。
怪しすぎる。
怪しまないにしても、びっくりポイントがあまりにも多すぎる。私はとりあえず、一番処理しやすい情報から順番に驚くことにした。
ネコばあさん、ちゃんと下の名前、あったんだね。
母さんに、吉田のおばあちゃんの様子を見に行くようにって言われたから、と、つっかえつっかえ言うと、ニワトコ=スティーブンさんは、うんうん、と頷いて、「じゃ、中で待っていれば?」とドアを開けた。
「ちょっと散歩に出ただけだからすぐに帰ってくるよ。俺は料理の最中だからあんまりお構いできないけど」
「え、でも……」
男の人が一人だけでいる家に入るのはためらわれる。
そういうことをして何かあったらあなたが責められるのよ、と母さんは言う。
——何かあったらって……どんなことが?
12歳ぐらいだろうか、初めてそんな注意を受けたとき、私はびっくりして尋ね返した。
男の人にはね、密室に女の人と二人っきりになったら、それだけであなたと肉体関係を持ってもいいものだと思ってしまう人がいるのよ。
それはあまりにも衝撃的な情報で私はその時、とてもとても驚愕しておやつのドーナツを2つも食べてしまった。
小学校で保健の授業で性教育の話をものすごくオブラートに包んで教えられた後のことだったと思う。
母さんの話を聞く限りでは、そういう人たちは、こちらの意志とは関係なくいくつかの条件が揃うとそういう行動にうつるのだそうだ。
だけどクラスの男子がそんなことをするとか、想像もつかない。
そう言うと、母さんはため息をついて、「大人の男の人は別なの」と言った。
まじか。タケシもいつか、そういう行動を取るようになるのか。
——そんなわけないでしょう。母さんがちゃんと育ててるもの。 と、母さんは言った。
——それに男の人でも本当に少数派よ。だけど運悪く当たっちゃったら困るじゃない。話が通じるとは限らないんだから。
なんというか、高級ホテルの全自動トイレみたいだな、と思った。こちらの意志とは関係なく個室に入ると蓋が開いて水音が流れたりするやつ。そばに来たらスタンバイみたいな。
別に、トイレの個室に入ったからといって用が足したいというわけじゃないときだってあるのに。
ただ、鼻がかみたかっただけだとか、周囲の人に気を使うのにちょっと疲れちゃったとか、悲しい漫画を突然思い出してどうしてもどうしても泣きたくなっちゃったとか。
そういう止む終えない事情で入っても高級ホテルの全自動トイレは「待ってました!」とばかりに勝手に蓋が開くのだ。
同様にある種の大人の男の人は部屋に二人きりになると自動的に様々なアクションを起こすらしい。
仕方ない。全自動だものね。
意思疎通の出来なさそうな感じもなんとなく似てる。
そして全自動トイレだと知らずに個室に入っちゃったとしても、蓋が空いたらそれは私のせいになるのだという。
解せぬ。
そんなことを考えてためらっていると、突然すごく有名なクラシック音楽が鳴った。
「あ、キワコさんだ」
ニワトコ=スティーブンさんは、ポケットから携帯を出した。
「うん。……そうそう。お昼ご飯を作ろうと思ってるところ。なんか簡単なものでいいでしょ。俺が作るよ」
電話の向こうからかすかにネコばあさんの声が聞こえてくる。
「そうそう。女の子が来てるよ。キワコさんのお客様。うん、わかった」
えっ、お客様だなんて、困る。私、お客様じゃない。
私は、大慌てでニワトコ=スティーブンさんの顔を見上げた。
本当のところ、噂のマジョとやらをちょっと遠くから覗くだけで十分だったんだ。
それなのに。
「あと5分だって。待っててって言ってたよ」と言うとニワトコさんはさっさとタバコ屋さんの中に入っていった。
……と、思ったら、がらっと音を立てて窓が開いた。
「キワコさんが帰ってくるまで窓を開けっ放しにしておくよ。この家匂いがこもるからね」
——気を使われちゃった。
それくらい、わかる。警戒していることに気づかれてしまった気恥ずかしさと、会ったばかりの他人を心の中で全自動トイレになぞらえてしまった申し訳なさで、私はちょっとうつむいたままタバコ屋さんの家に入った。
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