ネコばあさんの家に魔女が来た

赤坂 パトリシア

第1話 ネコばあさんの家に魔女が来たこと


「ネコばあさんの家に、魔女が来たんだって」

 朝食のテーブルでそう言ったのはタケシだった。


「ネコばあさん、じゃないでしょ。吉田さんのお婆ちゃんでしょ」

 私の分の目玉焼きを焼いていた母さんがイライラしたようにタケシの言葉遣いを直した。


「魔女ってさあ」

 タケシは母さんのことなんか全く無視して続ける。

「変だよね。本物の魔女なのかな」


「そんなわけないだろう」

 新聞を読んでいた父さんがぼそっと言う。あ、聞いていたんだ。


「なんなのかしら。心配ねえ。吉田さんも、もう年だし。……変なのにつかまってなきゃいいけど」


 ネコばあさん、は、正確に言うと、「吉田たばこ屋さんのおばあちゃん」だ。昔は何匹もネコを買っていた。それで、近所の子どもたちは「ネコばあさん」と呼ぶ。


 でも、今はそんなにたくさんネコがいるわけじゃない。


 一昨年、息子さんがニューヨークから帰ってきて、引き取り手を探したから、今は二匹しかいない。

 それにたばこ屋さんも、私が産まれるずいぶん前にやめたって聞いている。今でもみんな「吉田たばこ屋さんのおばあちゃん」って呼んでいるけれど。


「変なのって、どんなの?」

 タケシは興味津々といった風情で聞く。


「……それはあれよ 。新興宗教に はまっちゃうとか ……」

 と母さんが答えた。


「しんこーしゅーきょー!」

 とタケシは素っ頓狂な声を上げた。

「空飛んだりするやつ?」


 ……それは新興宗教というか、なんかいかがわしいマジックかなんかだと思うよ、タケシ。私の弟は時々ちょっとアホの子だ。


「そんなことはどうでもいい。ほら、朝練に遅れるだろう」

 と父さんが 新聞の向こうから言う。


 父さんの声はほんの少し不機嫌そうで、私の胸は「きゅっ」としまった。

 本当は父さんは学校に行ってほしいんだと思う。


 早く学校に行けって、言いたい相手はタケシじゃなくて私なんじゃないかな。


「 はいはい 」

 私が通っていた中学の制服を着たタケシは 口を尖らせて 席を立った。

「いいなユッキは。 学校行かなくて良くって 」


 立ち上がりざまの弟のセリフに「タケシ!」 と 母さんと父さんの 焦った ような声が重なった。


「ま、俺は部活が楽しいから行くけどね!」


 親が焦っているのは全く気にしない風で、タケシは私に笑いかける。屈託ない笑顔だ。

 絶対モテるだろうなあ。——自分の弟だけど。

 クラスに女子に向かってこんな風に屈託なく笑いかける男子がいたら、絶対惚れる。自信をもって言える。

 自分の弟に惚れる気にはなれませんけどね!


 ——私が高校にあまり行けなくなってから、そろそろ半年近くになる。


 父さんも母さんも私と話をする時には なんだか 腫れ物に触るみたいだ。でも三才年下のタケシは時々、しらっとこういうことをいう。


「 そうだ 今日行ってみるといいよ」

 とタケシは靴に足をつっこみながら私に笑いかけた。

「 家の中ばっかりで引きこもりとかになっちゃったら困るってカウンセラーが言ったんだろう? ネコばあさんの家だったら人に見られても老人訪問のボランティアですとか何とでも言えるじゃん。行っておいでよ。魔女がどんなものか見てくるといいよ !」


「もういい早く行け」

 あんまりにも気楽な口調に、釣られて苦笑した父さんが、自分も立ち上がりながら タケシの肩をポンと叩いた。

「 朝練に遅れるぞ」

「へいへい」

「ハイは一度!」

「じゃね、ユッキまたね~」

 顔をくしゃくしゃとさせて 私の弟は中学へかけていく。


 すごいなー。


 タケシを見ていると、なんだかまるで学校はものすごく楽しいところみたいだ。

 私が通っていたあの頃、あそこは地獄みたいだって 思っていたんだけどな。

 もしかしたら、私とタケシは同じ世界に住んでいるつもりで全然違うものを見てるんじゃないだろーか。

 こう、私には見えない紫外線が、あの子には見えるとか、そんな感じで。

 だって、タケシの世界は本当にキラキラしてそうだ。

 そう考えたらちょっと、くらっとした。

 私にだけ見える世界が違うとか。


 なんか三流のホラーみたいだな。





 朝ごはんが終わると仕事へ行く前の母さんを手伝って食器を洗う。

 母さんの仕事は 近所の会社の事務だから、父さんより少し遅く始まる。母さんは本当に困りきった顔をして私の方を見る。


「あのね、さっきタケシが言ったことだけど……」


「あ、心配しなくていいよ!」

 私は笑う。ちょっとひきつってしまってるかもしれない 。

「タケシがずるいって思ったって仕方ないよ。学校に行ってないのは本当だしね」


 母さんは私の方をじっと見る。探るみたいに。

 学校に行けなくなってからしばらく、母さんと父さんは交代で仕事を休んでいた。でも、何ヶ月たっても私は学校の前に立つだけで吐いてしまったりで——一日に何度かメールでやり取りすること、困ったことがあったらすぐに連絡することを前提に、母さんは仕事に復帰した。

 本当は、仕事をやめてしまいたかったことを私は知っている。今だって、母さんは自分が仕事をやめるべきなんじゃないかって、思っている。私が学校に行けないのは自分のせいなんじゃないかって。


「……仕事に遅れるよ」


 母さんはふう、と肩を動かしてため息をついた。

「ちゃんとお昼ご飯を食べてね」

 そう言いながら、朝ごはんの残りのかぼちゃの煮付けにラップをかける。

「あと、煮魚があるからレンジでチンしてね」


「うん……」


 私はほんの少し口を濁す。


 実はここのところずっとご飯が食べられていない。

 みんなと一緒の朝ごはんは食べられるのだけれど、用意してあるお昼ご飯や夕ご飯は どうしても食べたくないのだ。どのみち、父さんの帰りは遅いし……タケシも、部活が終わったらすぐに塾にいくから帰ってくるのは遅い。母さんの帰りはマチマチだ。時々私のために急にお休みをとったりするから、大丈夫なときはあまり無理が言えないって言う。

 学校に行かない私と塾通いのタケシのために、母さんは毎日お弁当を作っておいてくれるけれど、本当にそれが食べられない。


 口に入れるとぎゅっと何かがこみ上げてきて、吐きたくなる。


 食べたいものがないわけじゃないんだ。


 本当に食べたいのはカップラーメンとか ポテトチップスとかチョコレートとかコンビニで買うようなもの。子供の頃から母さんが 絶対に食べちゃダメよって言ってきたようなもの。でも お金がないから そんなに買うわけにもいかない。

 お小遣いは月1000円。小学生の小遣いかよ、とタケシは口を尖らすけど、欲しいものがあるわけじゃないし、大抵のものは言えば買ってもらえるんだから、それほど不満があるわけでもない。

 困るようになったのは本当に最近。ご飯がなぜだか食べたくなくなってから。

 1000円のお小遣いがあっという間にチョコレートやポテチに消えちゃうから。


「タケシの話じゃないけど」

 そんなことを考えていたら、出掛けの全身チェックをドアのミラーでしていた母さんが 口を開いた。

「今日は散歩で吉田さんの家に行ってもいいかもしれないわね 」

 私はちょっとびっくりして母さんの顔を見る。


「吉田さんはこの辺りの自治会の役員をずっとしていたし、その後は子供110番の家もやっていたし。あなたが行ってもおかしいことはないわ」


 母さんの表情は穏やかだ。

 本当は、とても心配しているくせに。

 母さんはとても心配症だ。


「それに明日カウンセラーと話をするでしょ。一週間何をしてたのって聞かれて 何も言うことが無いより、少しでも言うことがあった方がいいんじゃない?」


「そうかなー」

 気乗りがしないまま私は母さんのベージュの靴を見る。つま先が随分すり減っていた。


 母さんは本当はもっとおしゃれな人なんだと思う。私が学校に行けなくなってから 目に見えて疲れてるけど。

 


「……いってらっしゃい」


「行ってくるわ。何かあったら必ずメールをするのよ?」






 母さんがドアを閉めると、部屋はがらんとした。

 私は、素直に母さんが残した参考書と問題集を開ける。学校に行けなくても勉強が遅れないように、母さんが毎日の勉強プログラムを作ってくれている。新しく勉強するトピックを取り扱ったYoutubeの番組もリストアップされていた。

 毎晩仕事から帰ってきてから夜遅くまでピックアップしてくれる。


「……これだけやってれば、大学受かりそうなんだけどなー」


 高校での勉強は、自分で頑張ればなんとかついていけそうな気がする。だって、前の学期はほとんど不登校で、日数ギリギリ保健室登校だったけれど中間テストも期末テストもちゃんと上位に食い込んでいた。

 それなのに、毎日同じ服を着て学校に行って、クラスメートと話をしなくてはならないのがつらい。

 「こーりつ悪いよなあ……」

 小さな声で独り言を言って、私はシャーペンを走らせる。作業量は多いけど、そんなに難しくはない。多分午前中で終わる。




 勉強を終わらせると時計は1時を回っていた。

 空腹感のようなものがある。胃のあたりがきゅっと痛いような感じ。でもご飯を食べたくはない。私はそのまま台所に行って、三温糖の容器を取り出した。大さじで三杯。口に流し込むと甘みが嬉しくてもっと食べたくなる。でもがまん。母さんに見つからないようにきちんと蓋をして棚に戻す。

 それから部屋に帰り、携帯からメールをする。かなり古い機種だけど、定型文で入れてあるから操作は簡単だ。タケシはスマホが欲しいみたいで、いつも私にスマホをねだるように言ってくる。

「年上のユッキがそんな化石みたいなの使ってるから、うちの親が全然スマホを買ってくれないんだよ」

 タケシは友達もいっぱいいるし、確かに不便なんだろう。私はこの古い携帯で十分だけど。シンプルライフだっていいじゃん。

「午前の勉強終わりました。これからお昼ごはんです」

 タッパーに食べ物を詰める。

 このまま台所のゴミ箱に捨てるわけにはいかない。公園かどこか——母さんに気づかれないところにこの御飯は捨てたほうがいい。

 砂糖、もっと食べたいな、と思う。


 部屋の洋服棚の奥から古い男物のパーカーを出す。それから野球帽。あまり出歩いていると近所の人に思われたくない。学校だって、不登校の人間が昼間から出歩いていると通報されたら何らかの措置を取らざるをえないかもしれない。


 ——あら、学校は? って聞かれたら、にっこり「サボっちゃったの!」って答えなさいね。


 母さんがしつこく言うセリフが耳の奥によみがえった。


 ごめん。

 そんなこと、言えないよ。

 少しでも私だと思われない格好で、誰にも声をかけられないようにしたいんだ。


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