第4話

 俺たちが高台へと向かい始めた時には、奴は既に潜水し、猛スピードでこちらに向かいつつあった。母は俺の腕を引きながらずいずいと進んでいく。しかし、奴の方が遥かに速い。

 僅かに振り返った時、奴はちょうど、頭部から砂浜にのし上がるところだった。ドドン、と再び地震を伴った重低音が、俺たちを骨の髄から震え上がらせる。


 周囲から一斉に悲鳴が上がる。奴はと言えば、腕立て伏せをする要領で立ち上がった。なんて強靭な腕なのだろう。そのまま上半身を跳ね上げるようにして、思いっきり反り返って再び咆哮を上げた。ここまで達したことを誇示するかのように。

 奴はドォン、ドォン、と足音を立てながら、真っ直ぐに歩みを進めてくる。その姿は、真っ黒な小山がそのまま迫ってくるような重量感を伴っていた。いや、山ではない。仮に動かなかったとしても、こんな恐ろしい山があるものか。


 その恐ろしさは、奴の身体の節々から滲み出てきていた。そうして人間の心を侵食していくかのようだ。

 強靭な腕と、その先についた鋭利な爪。同じく、鋭い乱杭歯の並んだ口。足は腕よりもずっと太く、その巨体を支えるのには十分すぎるほどだ。

 ざあっ、と奴の表皮を撫でるように、海水が流れ落ちていく。ぶるぶるとかぶりを振り、目元の水滴を弾き飛ばす。

 

 その小さな目に、俺たち人間はどのように映っているのだろう? 虫けらか? いや、それ以下、すなわち意識に入ってこないほどの存在だろうか?

 しかしそれは奴の立場からの感想だ。俺たち人間の思うところではない。俺たちが胸に抱くのは、畏怖、恐怖、そして死のイメージだ。


 俺の意識をはっきりさせたのは、唐突に響いたクラクションだ。駐車場のある丘を登り切った俺たちを待ち受けていたのは、やはりパニックだった。最初の鋭いクラクションを皮切りに、あちらこちらから怒号や罵声が飛び交う。

 今思えば、なんと愚かな行為だろう。自動車がそんなに大事か。この時、奴の直進コースから離れれば、どうということはなかったのだ。だが、そんなところにまで頭が回らないのは仕方のないことなのかもしれない。仮に、奴の注意を引くことになってしまったとしても。


 奴はゆっくりと首を巡らせ、僅かに足の向きを変えた。俺たちのいる、丘の方へと。

 ざわつきが、悲鳴に変わっていく。


「皆さん、落ち着いて! 車での移動は無理です! 徒歩で、急いでここを離れてください!」


 メガフォンや、電柱の上部に取り付けられたスピーカーから声が響く。そんな中にあっても、俺は奴の立てる足音をしっかり聞き取ることができた。耳に捻じ込まれてきた、と言った方が正確かもしれない。

 周囲は避難者の押し合いへし合いで、まともに身動きの取れない状態だった。そんな中、母は片腕で俺の腕を握り、もう片方の腕で優実を抱いて、丘の上のガードレールを歩んでいく。


「武也、手を離しちゃ駄目よ!」

「う、うん!」


 しかし、次の瞬間だった。ガクン、と母の足元が崩れたのは。


「きゃあっ!」


 奴の接近に伴う地震で、地盤の弱かった部分が崩落したのだ。


「うわっ! お、お母さん!」


 いきなり俺の片腕に母と優実の体重がかかる。俺はなんとか、もう片方の腕でガードレールの根本を掴んだ。しかし、俺の身体で二人を支えきることなど到底できない。母と優実は、あっという間にするすると落ちていく。


「お母さん! 優実!」


 母は俺を見上げ、それから優実に視線を下ろし、再び俺と目を合わせた。

 母が伝えたかったこと。それは、俺にとっては明らかだった。


 優実を、お願い。


 そして呆気なく、母は崩れゆく瓦礫に紛れて落ちていった。その胸に、優実をぎゅっと抱いて。俺はその場にひざまずき、現実とは思えないその光景に見入っていた。


「おい!」

「君、早く逃げろ!」

「待ってろ、今行くぞ!」


 放心状態の俺を抱き上げたのは、面識のない男性だった。迷彩服を着ている。気づけば、あたりには遠巻きにパトカーや救急車、それに自衛隊の車両が並んでいた。奴は未だにこちらに向かって接近している。


「急いで、ありったけの車両を回してくれ! 最大音量で警報を鳴らすんだ!」


 すると、明後日の方向から凄まじい音量で耳障りな振動が響いてきた。どうやら、遠くに集まったパトカー群がサイレンを鳴らしまくっているらしい。

 奴は未だにこちらに向かって近づいてくる。が、それもあと一、二歩のことだった。

 グルルル、と喉を鳴らし、奴は進行方向を変えた。サイレンが鳴っている方へ。


 ドォン、ドォンという足音が遠ざかっていく。俺が保護された丘から、並行に歩を進めていく奴。俺はまさに、すんでのところで救出されたのだ。しかし母は。そして優実は。

 俺を救出した自衛隊員は、奴が進行方向を変えたのを見届けてから、人混みに突っ込んでいった。警察や自衛隊の早期対処によって、多くの人々は正気を取り戻している。パニックは終息したようだ。


 俺は最寄りの救急車に乗せられた。足を負傷した若い男性や、頭に包帯を巻かれた女性が担架の上に横たわっている。

 俺は自分の両手を見下ろした。よく見ると、右腕の手首に赤い痣ができている。まるで、赤いリストバンドでもしているかのように。

 お母さんは死んだ。お父さんもきっと助からない。そんな実感が、俺の胃袋の底からせり上がってきた。それは嗚咽となって、やがては悲鳴となって、救急車内の空気を震わせた。


「うわあああああああ!!」

「落ち着け、坊や! おい、早くハッチを閉めろ! 次の車両のために道を空けるんだ!」

「は、はい!」


 バタン、と勢いよく後部ハッチが閉められ、救急車はすぐさま発車した。


         ※


 三十分ほどが経過しただろうか。俺が泣き喚いているうちに、救急車は病院へ到着した。何故こんなに時間がかかったのかといえば、奴の出現により、通行止めや道路の封鎖が行われたからだ。

 奴の出現は、観光客たちが奴の姿を認める二十分前には行政機関に知られていた。海上自衛隊の哨戒機が捕捉していたのだ。だが、あまりに突拍子もないモノの出現に仰天した上層部が、現場に警戒を促すのが遅れたらしい。

 それでも、災害派遣の名目で自衛隊にすぐ出動命令が出せたのは不幸中の幸いだろう。


 だが、そんなことは当時の俺には関係ない。

 親戚の家に預けられた俺は、毎日毎日、泣く泣く日々を送った。俺の家族は永遠に失われてしまった。俺を引き取った伯父夫婦は、俺のことを心から心配し、気遣ってくれた。しかし、その優しさに触れる度に、俺は家族を思い出して涙を堪えられなくなった。


 そうこうするうちに、夏が終わり、秋が過ぎ、二〇二二年も末となった、ある日のことだった。俺の人生に転機が訪れたのは。

 確か午後十一時頃だったと記憶している。


「武也! 武也! ニュースだ! 下りてきなさい!」

「あなた、武也くんがあんなものを目にしたらどうなるか……」

「いつかは立ち向かわなければならないんだ。それに、これは我々にとっても他人事ではない。武也、リビングに来なさい!」


 俺が立ち向かわなければならないニュース。何事だろうか。

 俺は、思いの外軽く腰を上げた。胸騒ぎがする。涙を拭い、部屋を出て、廊下の電気を点けてから階段をゆっくり下りて行った。


 踊り場にまで下りた、その時だった。


 ドォン――。


 はっとした。この音、奴がまた現れたのか!?

 俺は駆け足で階段を下り切った。リビングに入ると、伯父夫妻が呆然としてスクリーンを見つめていた。テレビのニュース番組らしい。


《繰り返します。今年七月三十一日、九十九里海岸に出現した、えー、怪獣、怪獣が、再度出現しました! 房総半島に上陸した怪獣は、現在も内陸部へ向け進行中であり――》


 アナウンサーがヘルメットを被り、マイクを握っている。その向こうに広がっているのは、真っ暗闇であるはずの空を明々と照らす炎だった。


「なんてこった……」


 伯父が呟く。日本酒をお猪口に注いだポーズのまま固まっている。もうお猪口から溢れ出ているというのに。

 伯母は不安げに伯父の方に手を載せ、身を寄せ合っている。


 俺が身を寄せていた伯父の家は、西日本、瀬戸内海に面していた。


「あなた、あんなものがここに上がり込んできたらどうするの?」

「……」

「あなた」

「なんだ!」


 伯父が怒声を発するのを、俺は初めて見た。


「どうもしようがないだろう!? 自衛隊が戦えないんじゃな!」


『全く、なんのために毎年防衛費をかけているんだ』――その言葉に、俺は胸中に火が灯るような感覚に襲われた。


「伯父さん、伯母さん」

「あ、あら、どうしたの、武也くん?」


 俺はすっと息を吸い込み、はっきりと告げた。


「僕、自衛隊に入る。そしてこの怪獣をやっつけるよ」

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