第3話
こうして俺たちは昼食を摂ることになった。焼きそばを三人分頼み、母が少し優実に分けてやることにする。そばを一本一本取り分ける母の手先は器用なのだな、と思いながら、俺は自分の焼きそばを頬張っていた。
「さて、俺はもう一波乗ってくるかな」
自分の焼きそばのパックを空にした父が、さっと立ち上がる。俺が食べ終わるにはまだ少しかかりそうだ。
「じゃあ私たちはさっきのパラソルのところで待ってるから」
「ああ。それじゃ」
父は大きな歩幅で海に向かっていく。
俺も早く食べ終わって、父のサーフィンを見習いたい。そう思いながら焼きそばをごくりと飲み込んだ、その時だった。
ドォン――。
とんでもなく大きな和太鼓を叩いたような、それにしては不気味な振動を伴った音が聞こえた。いや、震えているのは空気だけではない。父の残した空の焼きそばパックが、カタカタと振動する。
ドォン――。
「なんだ? 地震か?」
「ちょっと何?」
段々と観光客にざわめきが広がる。何かがおかしい。それは俺も感じたことだ。
ドォン――。
今度こそ、皆が察した。これは異常事態だと。母は優実を持ち上げ、抱きしめた。すぐに逃げられるようにだろう。しかし、一体何から逃げるというのか? その時点では、誰も分からなかった。
それでも事態は進行する。今度は和太鼓のような音ではなく、砂嵐の中で弦楽器を弾き鳴らしたような振動だった。
ゴォォォォォォォ――。
それは無機質なようでありながら、どこか自分の存在を世に誇らしめるような雰囲気があった。一体何だ? 何者なんだ? どうなっているんだ?
母の制止も聞かずに、俺は海の家から駆けだした。柱に手をかけ、海の方をじっと見つめる。別になにも異常は――あった。
俺の視界の中央に飛び込んできた『それ』。俺が後に『奴』と呼ぶ存在が、遠浅の海に屹立していた。
「ねえ、何あれ?」
「鯨……じゃないよな」
「もしかして、こっちに近づいて来てる?」
「えっ、やだ、怖いこと言わないでよ!」
段々と広まっていく恐怖の波。すると、俺の視界の中央から、こちらに向かって駆けてくる人物がいた。父だ。
「大丈夫か、武也!」
「お父さん、あれ……」
呆然としたまま、俺は奴を指差した。
「あれは一体何なの?」
「お父さんにも分からん。お母さんと優実は?」
「え? ああ、まだテーブルに――」
と言いかけたところで、父は既に俺のわきをすり抜け、母と優実の方へと向かっていった。サーフボードはどこかに捨て置いてきてしまったらしい。
「二人共、大丈夫か?」
「ええ、でも何が起こっているの?」
そんな母の問いかけを無視して、父は口早に語った。
「出動命令が出た。もう観測ヘリは出動しているそうだ。俺は哨戒船に乗り込んで接近を試みる」
「ちょ、ちょっと待って、あなた!」
なんとか父を引き留めようとする母。自分一人で俺と優実を守り切る自信がなかったのだろう。
「心配するな。すぐに戻る」
すると、母は一瞬でその表情を厳しいものに切り替え、しっかりと頷いた。
父は、海上保安官なのだ。海に異常――不審船の出現や海難事故など――があれば、真っ先に駆けつけるのが任務。俺が父に憧れていたのは、その使命感に燃える姿に感銘を受けていたからだ。
その時、俺は初めて、父が母の額に口づけするのを目にした。
即座に父は向きを変え、こちらに振り向いた。そのままずんずんと歩を進めてくる。
「武也!」
俺はびくり、と肩を震わせた。その時の父からは、畏怖の念を抱かざるを得ないような気迫が感じられた。
「お母さんと優実を頼むぞ」
無造作に、曖昧に頷く俺。その髪をくしゃくしゃと撫でながら、父は『いい子だ』とだけ告げた。
その間にも、奴は砂浜を目がけて直進してきていた。ヴン、という音と突風につられて上空を見上げると、海上保安庁のロゴの入ったヘリが低空飛行していくところだった。二機だ。奴の前方で左右に分かれるようにして、高度を上げて旋回軌道に入る。
思い出したかのように、携帯端末で写真や映像を撮り始める者が出てきた。そんなことより、逃げた方がいいのではないか。俺は頭の片隅でそんなことを思ったが、行動には出なかった。否、出られなかった。
ライフセーバーや交通整理の警備員たちも奴に目を奪われている。そんな中で『逃げろ!』と叫んでしまえば、到底パニックは避けられまい。
と、いうのが表向きの理由だ。しかし本心は、この場を離れることで、父から遠ざかってしまうのが恐ろしかったのだ。
真っ黒な奴の姿は、実にゆっくりと、しかし確実にこちらに近づいてくる。どこかこちらを――人間たちの動向を探っているような気配が感じられるような気がした。
俺たちが身動きを取れないでいると、視界の端から何かが飛び込んできた。海上保安庁の高速小型艇だ。きっと父が乗っている。俺はますます、その場を離れられなくなった。
高速小型艇は、それこそ凄まじい速さで奴の元へと接近していく。奴の頭上を旋回する数機のヘリに、腰元の海面を向かっていく多数の高速小型艇。
その時、奴が何を思っていたのか知る由はない。ただ一つ確実なのは、奴には恐れも、同情も、交渉の余地もなかったということだ。
ゴォォォォォォォ――。
二度目の咆哮の後、奴はざばり、と海面に自身の身体の前面を叩きつけた。倒れ込んだかのような姿で、奴は背びれで海水を切るようにして泳ぎ始めた。真っ直ぐに、こちらに向かって。
あまりにも巨大な体積が降りかかってきたことで、海面は荒れに荒れた。眩しい空の青を真っ二つにするように、奴は接近してくる。
「お、おい、こっちに来るぞ!」
「逃げた方がいいんじゃないか!?」
「は、早く丘の上に!」
ようやく事態が飲み込めたのか、観光客たちは一斉に駐車場のある丘の上へと殺到した。
「皆さん、落ち着いて! 落ち着いてください!」
「早く逃げるぞ! さあ!」
「押すな! 押すなよ!」
パニックの喧騒が、背後から聞こえてくる。しかし俺は、じっと奴の動きに魅入られていた。そのあまりの存在感によって。
その時、たたたっ、と背後から音がして、俺は腕を強く引っ張られた。
「武也、逃げるわよ! 武也!」
「お母さん」
顔を上げると、ちょうど母と目が合った。そこには、父に勝るとも劣らない鋭い視線があった。今思えば、それが防人の伴侶としての強い意志の表出だったのだと思う。
「武也!!」
同時に、優実がわっと泣き出すのが聞こえた。その泣き声が、一気に俺を現実に引き戻す。
俺は一旦、優実の方へと視線を下ろし、再び母の瞳を見つめた。俺が片手で掴んでいた柱から、無理やり引きはがされる。
「待って!」
俺は叫んだ。
「お父さんと一緒に逃げなきゃ、家族がばらばらになっちゃうよ!」
「お父さんは『あれ』を調べなきゃいけないのよ、私たちは早く逃げるの!」
「でも――」
俺は口を開こうとして、反論材料がないことに気づいた。『お父さんは、お前たちを守るために働いてるんだからな』という、日頃の父の口癖を思い出したからだ。
もう少し。もう少しだけ父の姿を見ていたい。母の態度が曖昧になった隙を突いて、視線を海に戻した。しかし、俺はその時の自分の行動を一生後悔することになる。
ほとんどの高速小型艇が高波を回避する中、一隻だけ、奴に向かっていく船があった。
俺は直感的に悟った。あれは父の乗った船だ。
「お父さん!!」
聞こえるはずはない。だが、叫ばずにはいられなかった。父の指揮する小型艇は、奴の進行を阻止するように立ち塞がる。しかし、それがあまりにも無謀な行為であることは、誰が見ても明らかだった。
奴は、水面下に置いていた自分の頭部を持ち上げ、思いっきり小型艇に噛りついた。
「!!」
勢いよく頭部を左右に振り、奴は顎の力で小型艇を真っ二つにした。無惨な姿で海面に、そして海中に没していく父の船。
「お父さん!!」
再び俺は絶叫した。しかし、意味合いはまるで違う。
最初は焦りや心配の気持ちを含んだ叫びだった。しかし今度は、胸が押し潰されそうな感情に駆られての叫びだ。これを『絶望』というのだと俺が知るのは、まだ先のことだ。
一気に身体が脱力し、俺は思いっきり母に腕を引かれた。脱臼せんばかりの勢いに、足元がふらつく。だが、俺はすぐさま足を踏ん張った。
「お母さん! お父さんの船、奴に壊されちゃった! お父さん死んじゃったんだよ!? どうしてそんなに簡単に逃げられるんだよ!?」
パチン。
鋭い音が、耳朶を打った。母が、俺の頬を張ったのだ。
「お父さんは、私たちが逃げる時間を稼ぐために殉職したのよ! 親の気持ちなんて、今のあなたには分からないでしょう!?」
俺は、絶句した。
「さあ、急いで!!」
こんなに感情を圧し潰したような母の顔を見たのは、これが最初で最後だった。
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