第2話【第一章】

 十七年前、西暦二〇二二年七月三十一日。


「ねえお父さん、こんな暑い日に海に行くだなんて、いくらなんでも身体に悪いわよ」

「ん? そうか?」

「武也も優実もまだ幼稚園生なんだし、熱中症にでもなったらどうするの?」

「全く、お母さんは心配性だな。なあ、武也?」

「う、ん?」


 長い高速道路走行を経て、俺はちょうど熟睡していた。五歳の時の話だ。妹の優実もまた、チャイルドシートに乗せられたまま夢の中。


「武也、優実を起こしてくれ。もうすぐ海が見えるぞ!」

「ちょっとあなた、優実は起こされるのが好きじゃないから……」


 などなど夫婦が言い合いをしている間。俺が揺すってやることもなく、優実は目を覚ました。今自分がどこにいるのか分からず、一瞬ポカンとした様子。だが、すぐに車の揺れが心地よかったのか、きゃあきゃあと声を上げ始めた。


「あら、優実はご機嫌ね! 助かるわ~。流石はお兄ちゃんね、武也!」

「え、ぼ、僕は何も……」


 助手席から顔を覗かせ、腕を伸ばして俺の頭を撫でる母。


「武也も随分しっかりしたんじゃないか? 妹ができて。来年小学校に上がっても問題ないようだな!」


 それには母も反論せず、うんうんと何度も首肯した。


「武也、小学校に入ったらたーくさんお友達を作りなさい。それから皆でこうして海に来るといいわ」

「おっ、見えてきたぞ!」


 母の語尾をかき消すようにして、父が歓声を上げる。


「武也、優実! 左を見てごらん!」


 まだ覚めきらない頭で目を擦る俺。しかし、そんな眠気は一瞬で吹き飛んでしまった。

 真っ白なガードレールの向こうには、青く輝く広大な海が広がっていたのだ。ぼんやりと、微かな弧を描くようにして、その青い景色に線が走っている。あれが水平線というものか。

 水平線の上には、海に引けを取らない、突き抜けるような青空が広がっている。視界をずらすと、壮大な入道雲が堂々と鎮座していた。


「うわあ……」


 俺の感動的な呟きを耳にしたのか、ふふん、と父が得意気に鼻を鳴らす。


「まあ、すごいわねえ。こんな日に海に来られたなんて、神様が祝福しているみたい」

「全く、お母さんはロマンチストだな」


 くくく、と父が嫌味のない声を上げる。


「何がおかしいの、お父さん?」

「おかしいさ」


 視線を前に遣ったまま、父は母に答えた。


「今日を天気にしてくれたのは、台風一過の高気圧だ。神様じゃない」

「お父さんってば、夢がないのね」


 母が頬を膨らませる。もちろんふざけ半分で、だ。


「こうきあつってなあに?」

「学校でちゃんとお勉強するから、心配しなくて大丈夫よ」

「そうだな。いろんなことに好奇心をもつのはいいことだぞ、武也」


 運転中の父に代わり、母が後部座席に身を乗り出して頭を撫でてくれた。

 しかしまさか、これが最後のスキンシップになるとは。そんなことは、当時の俺は夢にも思わなかった。


 しばらく山道を下り、やっとのことで駐車場の空きスペースを確保して、俺たちは車を降りた。


「うわ、あっつーーーい!」


 第一声を上げたのは母だ。


「さ、武也もいらっしゃい!」


 後部座席のスライドドアを開き、車外へといざなわれる。


「あっつーーーい!」


 と母と同じリアクションを取ってしまい、俺は少しばかり恥ずかしさを覚えた。妹もいるというのに、これでは自分が両親にベッタリしているようではないか。


「ああ、やっぱり暑いな。お母さん、優実を着替えさせてやってくれないか。パラソルを立てるのは手伝うから」

「分かったわ」


 頷く母の横で、微妙な距離を取りながら俺は尋ねた。


「僕はどうしたらいいの?」

「駐車場を下りれば、すぐに更衣室がある。一人で行けるか? ああいや、やっぱりお父さんがついて行って――」

「だ、大丈夫だよ!」


 俺は慌てて首をぶるぶると振った。


「あの建物でしょ? 一人で行けるよ!」


 そう言って俺はプレハブ小屋を指す。

 ちなみに、どうして父がそのプレハブ小屋に同行しないのかといえば、サーフィンの準備をするつもりだったからだ。今回の家族旅行は――そしてその行先が海であるということは、父の意向が強く反映された結果だともいえる。

 まあ、天気にも恵まれたし、そもそも誰も異論はなかったので、何の問題もないのだが。


 すると、母がしゃがみ込んで俺と視線を合わせてきた。


「武也は着替え終わったら、あの小屋の前にいなさい。お母さん、待ってるから」

「そんな、ついてこなくてもいいよ」


 俺は唇を尖らせる。しかし、それも母の柔和な笑みの前では無力だった。


「無理しちゃ駄目よ、武也。こんなに大勢の人がいるんだもの、迷子になったら大変でしょう?」

「迷子になんてならないよ!」

「アナウンスされたらさぞ恥ずかしいでしょうねえ、『石津武也くん、お母様がお待ちです』なんて」


 ぐっ。そう言われてしまうと返す言葉がない。


「……分かったよ、お母さん。でも入ってこないでよね」

「もちろん! 着替え室は男女分かれてるから」


 そういう問題ではないのだけれど。上手く言葉を繋げることのできない俺に向かい、母は両手で水泳パンツとバスタオルを差し出してきた。


「はい、これ。帰る時にも同じ下着と服を着るから、ちゃんと袋に入れておいてね」

「……」

「返事は?」

「はい」


 渋々了承した俺の答えを、母はそれでよしとしたらしい。


 ゆっくりと階段を下りていくと、すぐそばで父が俺たちを待っていた。既にサーファー用のウェアに着替え、サーフボードに腕を遣っている。


「じゃあお母さん、子供たちを頼むよ」

「ええ」


 すると父は、背後から麦わら帽子を取り出した。そっと母の頭に載せる。


「この前買ってきたんだ。どうだい?」

「鏡がないから自分の姿が見えないけど……」

「素敵だよ、お母さん」

「まあ! そんな台詞、久しぶりに聞いたわ」


 両親は互いに視線を逸らし合いながらも、和気あいあいといった空気を醸し出していた。


「じゃあ、パラソルを立てに行こうか」


 砂浜に下り、場所を取ると、ものの数十秒でパラソルの展開は完了した。


「よっしゃ! 行ってくるぞ!」

「行ってらっしゃい! くれぐれも溺れないようにね!」


 サーフボードを片腕に抱え、父は海に向かって駆け出した。そんなにサーフィンというのは面白いのだろうか。いつか教えてもらってもいいかもしれない。しばしその背中を見つめてから、俺は更衣室のプレハブで着替えを済ませた。


「さあ武也、あなたも行ってらっしゃい。お母さんと優実はここで待ってるから」

「はーい」

「浮き輪を外しちゃ駄目よ、まだあなたは泳げないんだから」

「ちょっとくらいは泳げるよ!」


 俺は頬を膨らませて見せたが、母はゆっくりと首を左右に振った。


「そうやって油断する人が溺れてしまうのよ。あんまり深いところに行っても駄目だからね?」

「はーい」


 先ほどと同様、気のない返事をしてみせる。だが、母はそれでも可としてくれたらしい。


「じゃあ、行ってきます」

「気をつけてね!」


 俺はゴーグルをかけ、浮き輪を腰回りに装着してから、父の後を追うように駆け出した。


 やはりというべきか、海にはたくさんの人がいた。親子連れもカップルも。また、父のようにサーフィンを楽しむ人も。ただし、混んではいない。たくさん人がいる分、海が広いのだ。そう思わされるくらい、初めて入った海はその広大さを俺に実感させた。

 ばちゃばちゃと手を上下させたり、浮き輪に体重を預けてみたり。俺は我ながら楽しく過ごした。これが海か。地球の表面の六、七割を占めているという、おおきな水溜まり。いや、水溜まりというにはあまりにも大きい。そんな当然のことを考えながら、俺は波に押されては引かれ、押されては引かれを繰り返していた。


 どのくらいの時間が経っただろうか。


「武也、お昼にするわよ。上がってきなさい」


 と、母が呼びかけてきた。よくもこれだけ多くの人の中から、俺目がけて声を届けられたものだ。そう半ば感心しながら、俺は振り返り、ゆっくりとバタ足で砂浜へと戻っていった。

 俺が合流する頃には、母は既にかき氷を二つ手にしていた。ちなみに優実は、母の胸に抱かれている。


「ほんと、暑いわね~。ほら、武也」


 差し出されたのは、かき氷のうちの片方、ブルーハワイだった。俺は小走りで母の元へ向かい、礼を言って勢いよくかき込み始めた。もう一つは苺味だろうか。少量をスプーンですくいながら、母は優実にも食べさせている。こんな冷たいものは食べたことがなかったのか、優実は目を閉じて口をむぐむぐとさせた。きっと軽い頭痛を覚えているのだろう。


「おーい、皆!」


 声のした方を振り返ると、早くも日焼けした浅黒い顔で父が向かってくるところだった。別れた時同様、サーフボードをわきに抱えている。


「さ、海の家にでも入ろうか」

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