第8話 寛解。
(オルゴールの音)
(調理音)
最初に感じたのは、頬に伝わる畳の感触とその匂い。目を開けると、眩しさで目がくらむ。徐々に視界が慣れると、自分が置かれている状況を視認できた。
「カレー?ここは…」
そこは、カナトくんと出会った部屋によく似ていた。いや、全く同じだ。
気が付かなかったのは、先程とは違ってテーブルやカーテンなどが据えられていたからだ。誰かが生活している。
(赤ん坊の泣き声)
「はいはい、ちょっと待ってね」
俺の横を女性が通り抜けて、赤ん坊をあやしにいく。彼女の声が俺の心を奪った。恋をしたというわけではない。
「なんで…真帆が」
真帆は、出産し、子を育て、誰かのために料理を作っていたのだ。いったい彼女は誰の?俺の子か?
「はいはい、どうしましたか?お腹空いた?トイレ?どうしたいのかな。奏ちゃん!」
奏?かなで…。カナデ、カナデ、カナデ、カナデ 、KANADE…
「ただいまー!奏ちゃんどうしたんですかー!なんで泣いてるの!」
作業着を着た"俺"が帰宅して、泣き叫ぶカナデの元へと足早に近寄っていく。
「誠!いっつも言ってるでしょ!汚いんだから最初にお風呂入ってよ!」
「真帆、お前そんなに俺が汚いと思ってんの…」
「そうじゃなくて!奏は体弱いから、バイキンもらうと風邪引いちゃうって、いっつも言ってるじゃん!」
(赤ん坊が笑う)
「あ、泣き止んだ」
「多分俺が帰ってきたからじゃない?」
「調子のんじゃないわよ!」
カナデを抱えた真帆が、 笑いながら "俺"の肩を 片手で殴りつける。それにつられて"俺"も笑う。
誰が見ても幸せなワンシーンに頭が疼く。あぁ、そうだ。なんで忘れてたんだろう。仕事が軌道に乗って真帆を養えるようになったから、 2年前に7年目の同棲にピリオドを打ったんだった。
そして、昨年、奏が産まれたんだ。なんで忘れてたんだ。
「真帆、実はね報告があるんだ」
「あぁあああああああ!!!!やめろおおおおお!!」
"俺"のひと言で、今までで一番の頭痛に襲われた。知ることを拒絶するかのような頭痛。”俺”が言葉を連ねる度に、歯の奥まで響き渡るような脳の痛みが襲ってくる。
「実はね、真帆。俺、×@#認めら…。百貨店…推薦…して…ことに…だ」
(誠の悲鳴)
「そうなんだ。どうなるの?」
(誠の悲鳴とノイズ音)
それ以上言うな!知りたくない!知りたくない!
「○@×ってやっていいっ…工房も × × × て、師匠の販路も名前も@@@@@××っっっっっっ」
(誠の絶叫)(ノイズ音)
(静寂)
痛みは留まることも、去ることもなく、俺の脳みそを周回していく。それが何分続いただろうか?
いや、数時間だろう。外はすっかり夜に変わっていたのだから。未だに頭に残る鈍痛をこらえながら、眠る"俺"を見下している。
これまでのことも、この後に起ることも知ってしまった俺は、明日の"俺"をなんとしてでも止めなければならない。
「おい。"俺 " 。聞こえるか?聞こえるわけないか。でも、聞け。まず、なんて言えばいいか分かんないから"俺"って呼ぶことにする。いいか、"俺"。お前は明日とんでもないドジを踏む」
俺は息を深く吸い込む。そして、 細くゆっくりと吐き出して、言葉を続ける。
「それが原因でお前は死ぬ……。おい、白河誠。よく聞け。お前は明日、死んじまうんだよ」
寝てる"俺"のおでこを軽く叩くも、何もなかったかのようにすり抜ける。あぁ、やっぱりだめか。
「でも…安心しろよ。俺がお前を……"俺"を助けてやるから!」
眠る"俺"にそう告げて、寝室を出る。キッチンの流し台の上に裏面が白紙のチラシを置き、長年愛用していた万年筆を持つ。"俺"に対してメッセージを残すのだ。
「普通なら気持ち悪くて捨てるだろうけど、あれを書いときゃアイツもその気になるだろう」
紙に筆を滑らそうとしたときだ。すべてが暗転した。
(ドアが閉じる音)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます