空気のような

篠岡遼佳

手紙

 彼女は、空気のようなクラスメイトだった。


 いるのかいないのかわからない、という意味ではない。

 彼女がいないと、まるで誰もが呼吸しづらくなるような、そういう空気を作る天賦の才があった。つまり、彼女自身が教室の空気を決めていた。

 彼女はそのカリスマで権力者になれるはずなのに、決してそうなろうとしなかった。むしろ、何かを忌避している節さえあった。

 彼女はとても美人だったが、その美しさは、その忌避するものと同一にならないからこそ、保たれているようだった。


 彼女の瞳は左右でわずかに色が違った。

 それは普通であれば違和感を覚えないくらいの些細なもので、互いに見つめ合うときにしかはっきりとわからない。

 その見つめ合うときが、彼女を一番近くに感じられて好きだった。


 放課後の図書準備室。

 僕の腕にすっぽりと彼女を収め、傾く日に互いの制服をさらして、ただそこに相手を探していた。


 夏服の袖から伸びるさらりとした彼女の肌を、決してなめらかではない手で触れる。

 彼女はふっと息を吐いて、胸に頬を寄せる。

 そして、見つめ合う。

 彼女の瞳は、右目は淡い茶色で、左側が緑に近い茶色をしている。

 この距離出ないと見られない、特別な色。

 更に近づく。

 長いまつげと、自然に流した眉が、前髪で少し隠れている。

 互いの呼吸が聞こえているが、決してそれは速くない。

 鼓動も届いているが、ただただいつも通りの早さで胸を打っている。


 眼鏡を外して。そう彼女に言われるのもいつものことだ。眼鏡を外し、ややぼやけた視界で、もっと彼女の瞳に近づく。

 頬に彼女の白い手が触れる。相手との距離を確認しながら、間違えないように。

 彼女は言っていた。

 ワイシャツからアイロンとあなたの匂いがする。

 他の人からはどんな匂いがするんだろう。


 彼女はいつも、目の前にいない人の話をした。

 その方が今が特別になると、彼女は言っていた。

 真意はわからないけれど、それでも確かにその時間は特別だった。


 けれど、特別ということは、一体どういうことなんだろうか。

 英単語帳をめくりながら探したが、的確な言葉はなかった。

 

 彼女と過ごした時間を反芻しても、少し蒸し暑いあの部屋しか思い出せない。

 彼女が勝手に鍵を管理している、西日の差すあの部屋。

 眼鏡をもてあそびながら、彼女は最後に近づく日々の中で言った。 

 

「ねえ、さようならを言うより、言わない方がきっと悲しいと思わない?」


 彼女とは進路が違っていた。

 だから、もう二度と会わないだろうと、ごく自然に思っていた。

 呼吸をすれば空気を思う。そして、毎日空気は入れ替わる。

 そういうふうに、彼女はすべてに影響を与えながら、決してとどまろうとしなかったから。

 いつか会えたら良いという気持ちは、わがままなんだと思った。

 ただ抱きしめ合っていただけの二人には、約束もよろこびも、笑顔さえなかった。

 「さようなら」も、なかった。




 ――急に手紙が来たのは、ある冬の午後だった。

 一人で休日を過ごしていると、カタンと玄関ポストが鳴った。


 差出人が彼女の名前であると気付くのに数分かかった。

 そのくらい、お互いを呼ばない関係だったことに思い至った。


 少し分厚い封筒。

 手紙なんて珍しい。丁寧にそれを開け、数枚も紙が入っていることに驚く。

 彼女が、個人に宛てて手紙を書く。それだけでも、充分あの時と違っている。


 封筒の中身をすべて出すと、まず一枚の写真が目にとまった。

 葉も青々とした大きな木の下に、真っ黒でレトロなポスト。翼を広げた黒いカラスの像が乗っている。

 写真の裏側には、黒いペンで、

『八咫烏ポスト。黒はすべてを合わせた尊い色だそう。この木の葉の裏に、爪などで文字を書いていたことが、葉書の語源』

 と書いてあった。


 続く、数枚の便箋には、きっちりと文字が並んでいる。

 当時からきれいな字を書いていた彼女。

 自販機のいちごジュースばかりを飲んでいた彼女。

 自分の制服のタイを直しながら、こちらのタイを絞めるようにしたこともあった。

 彼女のことが、紙をめくるようにぱらぱらと思い出される。

 

 内容は、余計なものを削り落とした、箇条書きのような手紙だった。

 ひらがなだけは昔と同じように少し丸い癖があった。



 "手紙は、何のために書くのか、よくわからない。

 あなたは、今何をしているだろう。

 ただそれが気になってしまった。

 だから、元気かどうかとか、時候のあいさつとかは、書かないでおく。


 私はあなたといるのが楽だった。

 さようなら、そう思ってあなたと一緒にいた。

 それは私の癖なんだと思う。

 教室でなんだか浮いていたのも、誰とも深く関わりたくないからだ。


 さようなら、という関係が私は好きだった。

 いつでもおしまいになる関係の方が、ずっとずっと特別になれる。

 そうじゃない?

 毎日がおしまいの連続なんだから、明日も一緒にいようとすることなんて無駄なことだと思ってた。


 だから私はあなたに抱きしめられることが嫌いだった。

 あなたが私の瞳を覗きこむのも。

 そういう特別は、望んでいなかった。


 だって、そんなの、期待しちゃうじゃない。

 そんなの、うれしいと思ってしまうじゃない。

 ずっと一緒にいられるなんて、絶対にないのに。

 甘えてた。

 あなたが、それでも私を抱きしめてくれることに、甘えていた。

 うれしいことはそのままに、さようならを言うことをずっと先延ばしにしていた。

 ごめんなさい。

 ここまできて、「さようなら」を言うのが怖くなってしまった。

 ごめんなさい。


 これはそういう手紙です。

 無駄なことのひとつです。

 かなしみに弱くなってしまった私は、こうして手紙を出すことしかできない"

 


 手紙を持ったまま立ち上がり、部屋着を着替え、コートの中に手紙を仕舞った。

 部屋の鍵を閉め、スマートフォンで差出人の住所を確認する。

 電車でしばらく行けばすぐ着きそうだ。


 言わなければいけないことがあった。


 そう、彼女は甘えていたと言ったが、そうではない。

 「さようなら」はこちらから言うことだってできた。

 抱きしめたことを、うれしいと言うことだって、鼓動の近さに、安心していたと言うことだって。


 言わせてほしい。「さようなら」は、なしだ、と。

 何度でも「さようなら」を言えるように、

 何度でも「また明日」を言うことができる。



 そしていま、もっと別の言葉を持って、会いに行く。

 繰り返すことに臆病だった彼女へ、毎日だってそう言えるように。


 君が好きだった。

 今も、大好きだ。


 手紙ではないけれど、そう伝えに行こう。

 春はもうすぐ来る。新しい季節が、巡るように。


 

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空気のような 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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