公衆電話は雨宿り先
キジノメ
公衆電話は雨宿り先
目の前が白くなるほどの大雨の中、どうしてここにいるんだろう。
全身がずぶ濡れになりながら、少し大きい通りの傍に立ちつくしていた。隣の幼稚園はずぶ濡れで、誰もいないから廃園したように見えた。その隣の家はこげ茶の絵の具だけで描けそうなおんぼろで、雨に負けて崩れてしまいそうだった。
ここはどこだろうと、もう一度考える。知っている場所だっけ、ここは。見覚えが無いわけではなくて、過去に訪れている気がした。襲うデジャブ。頭のどこかを引っこ抜けば思い出せそうな、もどかしい感覚。それでも記憶が出てこなくて、雨の音があんまりにうるさいものだから、次第にいいやって投げやりになった。
通りは一台の車も走っておらず、バイクだって、トラックだって、バスだって走っておらず、ヘッドホンをした若者も、ベビーカーを押したお母さんも、杖を突いた老人も誰もいなくて、僕だけしかいなかった。試しに大声を出してみる。誰に届くわけでもなく、雨音に掻き消される。
うるさいうるさい雨の音は、風に乗って僕の肩を重く濡らしていく。髪の毛からは雨と見分けがつかないくらい水がしたたり落ちている。うっとうしくて顔を拭っても、瞬く間にびしょ濡れになった。
水分を取り除くように瞬きしながら仰ぎ見れば、空がぴかっと光って、だいぶ後からごろごろと雷鳴が轟く。ずいぶん遠い場所で雷が鳴っている。ここ以外にも、場所があるんだ。それに驚いた。この世界はまるで、僕の目に見えているこの道路周辺だけが、全てのように感じた。
しょうがないから歩く。ぐじゅっとスポンジを踏んだような感覚が足から伝わる。何日かければ靴は乾くのだろう。どこかも分からないのに、明日の心配をしてみた。
おんぼろ家を通り過ぎたら、生垣に埋もれるようにしてガラス戸のボックスがあった。中には古びた公衆電話が一台。こんな日でなければ見逃していただろうと言うくらい、生垣の一部と化している。こんなところに電話ボックスがあったんだ。明確に思い出せもしない記憶が「こんなの無かった」と叫ぶから、ほんのちょっと驚いた。
いい加減、わかめのように張り付く前髪がうっとうしくて、暴風雨から逃れるように電話ボックスの扉を開けた。途端雨が降りこんで、慌てて戸を閉める。防音部屋のように静かになる部屋。ぱらぱらとガラス戸に当たる雨の音だけ、微かにする。外はこんなにも荒れているのに、ここはこんなにも静かで、そのギャップになんだかおかしい気分になった。
目の前の緑色の電話は、まだ生きているようだ。液晶画面の表示がある。お金、あったっけ。どうせなら誰かに電話をしよう。
ポケットを探ったら、ちょうどいい具合に100円玉が出てきた。誰に電話をしようかな。けれど普段僕は、携帯を使っている。そんな人間が電話番号を覚えているわけもない。ポケットを探っても携帯電話は出てこなかった。探しはしたけれど、正直出てきても、困る。公衆電話を使う口実が無くなるのだから。
しょうがないと100円入れて、受話器を取った。指の動くままに任せてみようと、人差し指をボタンに近づける。おお、動く動く。そういえばこんな電話番号あったな。誰だっけ、中学の頃、まだ携帯を持っていない頃、毎晩毎晩かけていた番号。
トゥルルル、と懐かしい音がしてコール音が何度も鳴る。出ないってこともあるのか。でもこんな日に外に出るか?
ガチャ。
『はい、好野です』
好野、という名字を聞いて一瞬で思い出した。そうだそうだ、中学の頃毎日つるんでたやつ。部活は違えどゲーセンに行ったり、ゲームをしたり、ゲーム機を貸したり……。
ゲーム好きだったなあ、あの頃の僕。
『誰でしょうか?』
「あ、僕、水木。覚えてる?」
『みずき……? ん、中学の水木? は? マジで言ってんの、水木!?』
次第に音量が上がるのが面白い。僕は笑いながら頷いた。
「その水木。ゲーム大好き水木」
『マリカーで一位しか取らなかった水木?』
「偶に好野が勝とうとしたら、横から物理的に邪魔した水木」
『え、俺のこと覚えてる?』
「もちろん。スマブラで僕に勝ち続けた好野だろ」
『それで水木が勝とうとしたら』
「必ず電源を抜いてきた!」
ふたりで大声で笑う。懐かしい。その時は本気で怒って喧嘩もしたけど、次の日になればけろりとして、またふたりで遊んだっけ。
しばらく無言になる。懐かしい懐かしい、と次から次に溢れる思い出をめくるように見返していた。
しばらくして好野がテンションを下げずに聞いてきた。
『で、何の用?』
聞かれて困る。別に話したいことがあって電話したわけではなく、指の赴くままに電話しただけなのだから。
「あ、別に、用無い」
『マジ? まずどっからかけてんの?』
「公衆電話」
『公衆電話!? まだあんのかよ』
「うん、あった。生垣に半分埋もれて、苔の生えてる公衆電話」
『よく電話生きてたな、それ』
「ほんとね」
だから、用も無いなあ、と繋げたら好野はまた笑っていた。
『てかさ、中学で縁切れちゃったじゃん。なんで番号覚えてたの?』
「なんかねー、指の赴くままに動かしたら、お前んち押してた」
『あの頃、毎日電話してたもんな!」
「くだらないことでね。明日冷やし中華食べに行こう、とか」
『あったあった、ごまだれ冷やし中華の美味い店知ってる、ってね!』
「結局、味どうだった? 僕好きだったんだけど」
『正直言っていい?』
「うん」
『めちゃ美味かった……』
「あはは、よかった」
懐かしいなあ、僕らふたりの家の近くの、個人経営のお店屋さん。年がら年中冷やし中華をやっていて、あっつい夏の日に食べに行ったんだよな。美味しかったなあ。
「また食べたいね」
『食べたいな! そうだ水木、思い立ったが吉日。これから行かね?』
「え、本当に言ってる?」
『うん』
「外、大雨なのに?」
『大雨?』
「うん、雷も鳴ってる」
『お前、今どこいんの? 俺んち超晴天だけど』
「え?」
慌ててガラス戸越しに外を見るけれど、まだ雨は降り続いているし、ぴかぴかと空が、一瞬電気の通ったライトのように光っているのに。
そうだ、ここはどこだろう。どこか思い出せない、なんとなく懐かしい、人もいない、家も寂れた不思議な場所。
でも不思議と安心する、もうここで一生居てもいいかって思ってしまう、心が静かな変な場所。
「分かんないなぁ」
『どこかも分かんないとこいんの? 迷子?』
「かもしんない」
『目印言えよ。迎えに行く』
「うーん、別にいいかなあ」
『はぁ?』
「落ち着くんだよね、ここ」
『大雨なのに?』
「大雨なのに」
『なんで?』
「なんでだろ。雨は降ってるしずぶ濡れで気持ち悪いのも確かなんだけどさ、雨の音しかしなくて、いい場所なんだ」
『変な奴』
「お前も来たら分かるよ。ここは良い所」
『動きたくない?』
「うん、動きたくない」
『安心?』
「うん」
ふうむ、と好野が唸る。お前は優しいな、こんなこと言う僕を馬鹿だって笑い飛ばさないんだね。
でも、なんだか落ち着く。ここで寝てしまいたいなって思う。苔の生えた場所なのにね。動く方が面倒臭いんだ。
残金も残り少しだった。いいか、ここで切って寝てしまおう。起きたら雨が上がっているかも。それでいいや。
「なあ好野」
『あのさあ水木、ごまだれ冷やし中華食べに行こうぜ』
僕の声を掻き消して、好野がそう言った。
『ひっさびさにさ、寒いけど、食べに行こうぜ。だから、帰ってこい』
「……今、何月だっけ?」
『2月だよ! そんなことは忘れるなよ!』
「寒いじゃん」
『寒いよ。けど食べようぜ。いいな?』
「いいけど」
『だから、帰ってこい』
ピピピ、警告音。あとちょっとでお金が尽きる。
「冷やし中華ね……やっぱ寒いね」
『馬鹿みたいに笑って食べてゲームしようぜ。あの頃みたいに』
「またゲームの電源切る?」
『んなガキみたいことすっか。お前も腕押したり、邪魔すんなよ』
「僕だってそんなことしないよ」
久々に好野とゲームができるのか。冷やし中華を食べれるのか。そういえば最近食べてなかったなぁ、食べたいなあ。
「お金無くなりそうだから、切るね」
『おう。また電話しろ、待ってるから』
「うん」
プツ、ツーツーツー
耳に雷鳴が轟いて、雨の音がガラスを叩く。けれど不思議ともう惹かれなくて、僕は満足げに受話器を置いた。
臨死体験を、していたらしい。目が覚めると母親が泣いていて、父親すら泣いていた。ぼんやりした頭で反芻するうちに、生と死を彷徨う間に何を見ていたか、細かく思い出せなくなっていた。
雨の音と、雷の光と、あと、ふるぼけた公衆電話。
なにをしていたか、誰かと話したのか、何も思い出せない。ただなにか、しなければならないことがある気がする。
首を捻りながら、僕は病院の公衆電話の前に立っていた。携帯は電源が切れていたから、これを使って電話をするしかないのだ。
起きて何が自分の身に生じていたのか理解して、そうして落ち着いたら、中学時代つるんでいた、好野になんだか会いたくなった。ゲームばっかしていた友人。たまにいろんな定食屋に行った友人。
2月に変人だと思われるかもしれないけれど、冷やし中華を食べようって誘うつもりだ。ごまだれの、美味しい冷やし中華。そうしてゲームをして、今まで会っていなかった分を埋めよう。なんだか無性に、お前と話がしたいなあ。
番号は指が覚えている。わくわくしながら僕は電話をかけた。
公衆電話は雨宿り先 キジノメ @kizinome
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