花のピアノ・ワルツ

みずみやこ

花のピアノ・ワルツ

 わたし、えみは、この世界で最も美しい音を知っている。


 音の色がとっても鮮やかで、鮮烈。果てしなく広がる真っ青な海のように。

 けれども、淡い。庭に咲いた、珊瑚色のコスモスのように。


 この音を聞いていると、わたしだけ違う世界に入ってしまったように感じる。ある一曲の、一音目を鳴らしたら、いつもそう。周りが見えなくなって、わたしの目に映るのは今にも踊り出しそうな五線譜だけになる。

 その一音目が四分音符だろうと、四分休符だろうとね。無音の休符でも、音なのよ。


 最初は、メゾフォルテ。mとfが合わさった「やや強く」の強弱記号。そんな時は、手首をきかせて奏でる。くっついた三つの音符には、アクセントがついてるから、もっと強く、身を任せて。

 音は変わって、もう一回、もう一回。


 曲の始まりは、物語の始まり。この素晴らしい物語を指揮するのは、最初の一小節目。わたしが奏でる音楽「花のワルツ」は、わたしにとってとっても大事な物語。だって、わたしには華やかな音楽の世界がぴったりだもの。

 最初はね、壮大にメロディーを響かせるの。伸ばすところはたっぷり、息を使って、レガートは腕を使って。わたしはいつも、この曲を演奏する時は心の中で歌ってる。楽譜にそう書いていなくっても、歌って、ペダルと共に踊ってリズムを足で刻む。


 花のワルツといえばオーケストラの演奏だけど、ピアノだって出来るんだよ。例えば最初のハープの演奏–––––––弓の形をして、なめらかな音を奏でる弦楽器を再現するには、それなりの実力と、想像力が大切なんだ。

 指で押すだけの鍵盤楽器に思えるけど、そうではない。だって、ヴァイオリンだって、弓で弦を擦るたけじゃ綺麗な音は出ないでしょ?

 楽譜に速度記号や、強弱記号が書いていなくっても、そこに自分が想像したハープの音色を指で再現したら、オーケストラのコンサートは一人でも開けるんだ。


 川の緩やかな流れのように、わたしの音はピアノを通じて響いて消える。乱暴じゃない。とっても小さな響き。それでもしっかりした十六分音符。

 手首の力をすうっと抜いて、鍵盤に指を落とす、素敵な作業は、わたしだけの世界にある。


 あぁ、なんて綺麗なピアニッシモ! これがワルツの始まりを表してくれる。

 重く思われがちな低いレの音をペダルと一緒に鳴らして、装飾を付けるみたいにファとラを同時に二回。

 俗に言う「ズンチャッチャ」のリズム。三拍子の踊り–––––ワルツ。



 わたしが今使っているのはコンパクトサイズの電子ピアノ。グランドピアノや、アップライトピアノはハンマーというものがあって、それで弾いて音を出すのだけれど、電子ピアノは違う。鍵盤の下に音を出す機械があって、それがスピーカーを通じて奏でられる。

 わたしの好きな白色のいいピアノだから嫌いじゃないけど、なんとも、わたしの求めている音は出ないんだ。電子ピアノっていうのはね、ロボットと同じで感情がないの。強弱はつけられるけど「ピアノの音色」を完全に表現するには難しいんだ。

 グランドピアノは、一番低い音から一番高い音まで、音の想いを伝えることができるんだ。それを存分に活かせるのは、一流のピアニストだけだけどね。

 曲想といって、曲の感じは、どんなピアノでも奏でられる。……でも、わたしの追いかけている素晴らしい音色とは違うんだよね。


 ……ううん、文句は言わない。こうして電子ピアノで演奏できるのも幸せなことだもの。グランドピアノを触ってみたいだなんて夢のまた夢の話だよね!




 ––––––えみ、えみ!


 空の向こうに鋭く響くような、きらきらとした声が、ピアノの音に混ざって、ワルツの音色を飾った。


 わたしが今いる、おうちの中には、わたし以外誰もいない。お母さんとお父さんは出掛けているし、わたしのおうちは森の中にあるから、外で誰かが叫んだとも思えない。

 でもわたしは夢中で花のワルツを歌っていた。


 だって、わたしを呼んだのはピアノの音みたいだから。


 わたしは、腕を振りかざして楽譜のフォルテッシモを見つめた–––––––


 わたしの髪を揺らして、突然その風はやってきた。

 淡いピンク色の風みたい。それに、何かが混ざっている。………花びらだ。これは確か、コスモスの花。



 花のワルツの盛り上がりは、のびのびとした二分音符と軽やかな「ズンチャッチャ」の「ズン」から始まる、お花畑にいるような気分にさせてくれる素敵なメロディー。


 突然、鍵盤が重くなった。わたしは困惑して、一瞬、演奏を止めようとしたけど、どうも手が止まらなくって、そのまま指を動かした。



 …ザワ、ザワ………

わたしの背中に、涼しい風が吹き付けた。


 ……ん?

 ………うわぁ!


 すごい! ここ、どこかしら?

 びっくり、ここはわたしのおうちじゃないわ。

 緑の草原、とっても広い空、コスモスの花々、涼しい秋風。


 それに、これは、電子ピアノじゃないわ。


 ……グランドピアノ!

 でも、真っ黒くないわ、真っ白、雲よりも真っ白なピアノだ!

 いっぱいに開けられた、ふたの下に、ブロンドの弦と、それを弾いて音を出すのはハンマー。なんてすごい手応えなの、指がもつれてしまいそう! ううん、でも、ダンスは止まらないわ!


 わたしの口には、溢れそうな笑みがあった。


 眩しい太陽に照らされて、すぐそばに生えている大木の木の葉が小さな影を作って、真っ白い白鳥のような美しいグランドピアノと、鍵盤を弾くわたしを見守っているみたい。

 不思議な場所で、不思議なピアノで、わたしは不思議な曲を演奏しているのだけれど、こんな広いところじゃちょっと寂しいわね………。



 考え込みながら目を閉じると、すぐに、お客さんがやってきた。それも、空からの豪華な聞き手さんだ。

 バサバサと、沢山の翼を瞬かせて、数え切れないほどの小鳥さん達は木の枝にとまって一心不乱にわたしの演奏を聴き始めてくれた。


 お客さんは、それだけではなかった。遠くから、何か足音が聞こえると思っていたら、犬や猫、さらにリスや狐、サル、トカゲ、さらに、ミツバチやチョウチョまでもが、わたしの演奏に聴き入ってくれた。


 とっても長い、わたしだけのコンサートが始まった。



 ピアノの好きな所は、どんな、音の想いでも表現できる所。

 例えば悲しい時は、闇に沈んだような、静かな、弱い音。

 楽しい時は、ワルツみたいに弾んで、たまに跳ねちゃって、踊りだしたくなる元気な音。


 どんな感情だって、ピアノは表せる。


 ……ううん、グランドピアノやアップライトピアノだけじゃないわ。わたしが昔から練習してきた時にお世話になってる電子ピアノも、その音を出す練習にぴったりだ。


 この白い、グランドピアノに出会った時は夢みたい! って思ったけど、今、わたしに聞こえているワルツのリズムは、今までおうちで奏でてきた電子ピアノと同じみたいだわ。ということは、これはわたしだけのピアノの世界?

 うん、そうだわ、きっとそう。


 ずうっと探していたの、わたしだけの曲想を。花のワルツを作曲したチャイコフスキーのものでも、グランドピアノでしか表現できないものでもない、わたしが出せる音の想い–––––何で今まで気付かなかったのだろう? 電子ピアノはロボットではないのね! 鍵盤の下に機械があっても、悲しい音、楽しい音を鳴らせるのね! 感動したわ。


 お花畑の気分はこんな感じなのね。わたしったら、知らないうちに感じていたのか。


 難しくって失敗してしまいそうな音を、感覚で掴んで、指で……ううん、体で響かせる。周囲のお客さんたちはごくりと唾を飲み込むように、わたしの方に身を乗り出した。

 さて、いよいよ物語の終わりよ。寂しくなるけど、また物語は始まるからね!


 最後の四小節。力強い「f f f《フォルテフォルテッシモ》」の記号に導かれて、わたしは髪の毛を振り乱して指を広げた。


 言い忘れてたわ、物語を指揮するのは、最後の音も重要ね。

 最後の音は、四分休符。五線譜の上に、しっかりと奏でてある。


 力一杯、最後の最後のメロディーを響かせた後、二つの四分休符を味わって、膝に手を乗せる。

 いつも、こんな風に練習してたけど、とってもすごいことに気がつけたから、とっても素晴らしい演奏になったわね!


 お花の香りを感じていると、わたしの夢の世界は目の前からなくなってしまって、ちょっと古い電子ピアノが事切れた様子で佇んでいた。


 それでもわたしは、フォルテフォルテッシモの気持ちで笑ってわ。わたしはまだ事切れてなんかないわ!


「最高よ、わたしだけのピアノ!」


 わたしはピアノを抱きしめる代わりに、もう一曲、素晴らしく壮大な物語を始めた。

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